真人間

酔生夢死のたわけ者!

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最近の記事

「神はいるのかいないのか」「ものはただ存在するのか認識するから存在するのか」というのは哲学的には無意味な論争だ。ウィトゲンシュタイン、論理哲学論考。

 今日もまた、「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」のことを考えたい。 事態を表す命題は有意味である ウィトゲンシュタインは、命題は事態をあらわすものであるとした。事態とは、「現実世界に(論理的に)あり得ること」を指す。  例えば、ある事態について語っている「青森県にはりんごの木が生えている」とか、「地球はいつか太陽に飲み込まれる」というのは命題だと言える。そしてこれらの命題は、(恐らく)真である。現実に起こっている(起こる)事態のことを事実といい、事実について語って

    • 静かに生きる。前期ウィトゲンシュタインの世界観。

       語り得ぬものについては沈黙しなければならない。なんとも劇的でロマンチックなこの一文で締められるのが「論理哲学論考」。  ここでいう「語り得ぬもの」には、どうもいくつかの種類があるように思えるが、要するに「無意味なこと」。言い換えると、「世界について何も語っていないこと」。例えば「今日も今日とて辛すぎる」と僕が言うのは、これは無意味なように見えるけど、有意味だ。これは「僕は辛い」という世界のことを描写しているからだ。  無意味な命題として例にあがるのが、「神は存在する」とい

      • 目標なんか無くたって良い。ワンピースを見つけられなくても良い。

         人生に「かくあるべし」という本来あるべき姿はない。与えられた目標などというものはないですよ。「生まれたから生きている」のであって、「何かのために生きている」なんて思う必要はない。別にそう生きたいならそれはそれで良いことだけど、そうでないのもまた同じくらい良い生き方だ。  行き着く先にあるのはみな死です。別にそれも恐れる必要はないのだけど、ただ冒険をするように、旅行をするように、味わって生きれば良い。ワンピースを見つけられなくたって良い。グランドラインに入ることもできず撤退

        • 【哲学読書の勧め】15年ぶりにあった先生に叱られた

          叱られた…… なんとなく憧れていた先生と食事をする機会をもらった(彼は社会的にも随分偉い人になっていた……)。神田だかどこかの、古民家みたいな風情のあるアンコウ鍋の店だった。  僕は、何やら複雑な味の鍋を突きながら、そこで年甲斐もなく叱られてしまった。曰く、「君は15年前から使う言葉が変わっていない」。すでに酒で出来上がっていたのにも拘らず(アルコール依存症なのだ……)、頬を打たれたような衝撃を受けた。「感性だけで生きているように見える」とも言われた。  僕は僕で様々な経験

        「神はいるのかいないのか」「ものはただ存在するのか認識するから存在するのか」というのは哲学的には無意味な論争だ。ウィトゲンシュタイン、論理哲学論考。

          この日常もまた構造。確かに中身を見ると少しずつ違うことはある。プロジェクトを終えて達成感を感じることもあれば、滅多にいけない遊園地に行けることもあるだろうが、なんだか高が知れてきた。思うままに生きるなら、そういう生活の構造も崩していかないといけない。

          この日常もまた構造。確かに中身を見ると少しずつ違うことはある。プロジェクトを終えて達成感を感じることもあれば、滅多にいけない遊園地に行けることもあるだろうが、なんだか高が知れてきた。思うままに生きるなら、そういう生活の構造も崩していかないといけない。

          AIとの対話。人間の欲求は「増えること」と「生き延びること」を究極目的としているのではないだろうか?

          動物的人間観と霊長的人間観 AIが人工物だからというわけでもないだろう、おそらくは世の中の標準的な考え方が「自己表現、自己超越」などへの欲求を前提にしているからか、AIはそういった(高次の)欲求を、生存や増殖の欲求と分けて考えたがっているようだった。  僕はこれらの欲求も含め、全ては元をただすと「自己保存(すなわち生存)」と、「自己増殖(すなわち子孫を残すこと)」に由来するものだと考えた。もちろん、子供など要らないと思っている人もいるだろう。「すべての人が自己増殖を欲求してい

          AIとの対話。人間の欲求は「増えること」と「生き延びること」を究極目的としているのではないだろうか?

          死とは何か? 実はみんな死んだことがある。死を恐れずに人生を楽しもう、という哲学。はじめてのスピノザ

           國分功一郎著「はじめてのスピノザ 自由へのエチカ」を読んでスピノザ哲学について学んだことです。私が死の恐怖を乗り越えた記事はもう一つあるのでこちらもよろしければ……。 「死」を見つめるために「存在」を考える 今日の本題は「死」だが、そこに入る前に、まずは私たちの「存在の本質」について改めて見直しておこう。「私たちは何をもって存在していると言えるか」ということ。  スピノザの考えによると、私たちの存在の本質は、自己保存のための力「コナトゥスconatus」だ。コナトゥスは

          死とは何か? 実はみんな死んだことがある。死を恐れずに人生を楽しもう、という哲学。はじめてのスピノザ

          【心境】焚き火が消え、うっすらと煙が漂う中、寒くも寂しくもなく、ただその燃え滓をぼんやりと見詰めているような。

           長期の休暇を経てなのか、死への不安が和らいだ故か。あるいはスピノザが自分自身の心の動きを見つめ、自分だけの完全性を目指せと説いているのにあてられたのかもしれない。ともかく、心が落ち着いてきて、今歩いている人生に対する思いが失われてしまった。  やはり私は焦燥感や義務感で走る人間だったのだろう。今となっては虚仮……もとい苔しか胸の内には残っていない。これは燃え尽き症候群だろうか? そういう虚しさがないのだ。むしろ穏やかな心境。  焚き火が消え、うっすらと煙が漂う中、寒くも寂

          【心境】焚き火が消え、うっすらと煙が漂う中、寒くも寂しくもなく、ただその燃え滓をぼんやりと見詰めているような。

          私たちは何者であるか、は「こうありたい!」という欲望が教えてくれる。はじめてのスピノザ

          はじめてのスピノザ 自由へのエチカ 國分功一郎著 を読んだ。  また改めて書くと思うが、取り急ぎ「私たちの本質は何か」ということについて本書の考えを簡単にメモしておく。  スピノザは「自分を維持し、より完全な存在にしようとする力(≒欲望)」をコナトゥスconatusと呼んだ。私が私であろうとする、さらにいうと「こうなりたい!」という方向性と内圧のことだと思う。  で、曰くは、このコナトゥスこそが我々の本質である。  スピノザまでは、(そして現代に生きる我々も未だに、)本

          私たちは何者であるか、は「こうありたい!」という欲望が教えてくれる。はじめてのスピノザ

          虚しくなったなら問うべし。

          虚しくなったなら問うべし。

          実は酒をガバガバ飲んで不健康になっても良い!? 好きに生きるために構造主義を考えてみる

          構造主義とは「我々は型にはまっているね」っていう考え方 構造主義という考え方がある。要するに、「僕らって自分の頭で自由に考えて行動しているつもりだけど、実際は型にハマってるよね」という思想だ(違ったらスミマセン)。ここでいう「型」が構造。「社会制度」とか「言語」とか「文化」とか「立場」とか、そういう色々な制約にハマった上で考えて行動してるよね、ということだ。  例えば、英語で"rice"と言ったら日本語では「米」と思い浮かべると思う。でも実際には、"rice"は「稲」「(炊い

          実は酒をガバガバ飲んで不健康になっても良い!? 好きに生きるために構造主義を考えてみる

          行動が変われば意識が変わる。意識が行動を変えるのではないという考え。

          死の恐怖を乗り越えた! だがいかんせん、知らない店に入る恐怖を乗り越えることはできなかった 前回、僕はついに死の恐怖を乗り越えたつもりである。そして、その最大の恐怖を超えたがために、「軽率に生きていこう」「とりあえずやってみよう」という考え方を得た。にもかかわらず、「入ったことがないお店に入る」ということすらできなかった有様だった(改めて書いてみるとなんとも情けない話ですね)。  これは「意識が実際には変わっていなかった」か、もしくは「意識は変わったものの行動は変わらなかった

          行動が変われば意識が変わる。意識が行動を変えるのではないという考え。

          執着の理由は現状変更に対する不安や億劫な気持ちだと考えたが、なぜ現状を変更したくないのか。多くの人は現状で自分をアイデンティファイしていて、現状の変更はその崩壊を意味するように感じられるから、というのはどうだろう。周囲のもので自分をアイデンティファイする人ほど現状に執着する。

          執着の理由は現状変更に対する不安や億劫な気持ちだと考えたが、なぜ現状を変更したくないのか。多くの人は現状で自分をアイデンティファイしていて、現状の変更はその崩壊を意味するように感じられるから、というのはどうだろう。周囲のもので自分をアイデンティファイする人ほど現状に執着する。

          死の恐怖を超えた、という記事を書きましたが、オチとして得た新たな結論は「意識が変わっても行動は変わらない」というもの。僕らの行動を支配しているのは行動習慣であって意識ではないのですね。脳の生化学的、物理学的な構造が変わらないといけない。

          死の恐怖を超えた、という記事を書きましたが、オチとして得た新たな結論は「意識が変わっても行動は変わらない」というもの。僕らの行動を支配しているのは行動習慣であって意識ではないのですね。脳の生化学的、物理学的な構造が変わらないといけない。

          浜離宮を歩き、死の恐怖を超えた……が、死よりも恐ろしいことに出会う……。

           先週の日曜日。用事のついでに一人で浜離宮を散歩して、ぐるっと回って家に帰って酒をかっ喰らってぶっ倒れたわけだが、目覚めたところで、ある観念が胸に到来した。曰く、死など恐るるに足らないものである。  池に浮かぶ小島で、季節から外れてか茶色く朽ちた藤の花を見た。その光景がありありと思い出された。不快な蚊柱の蚊を見よ。そこら中に生い茂った名も知れぬ雑草どもを、ようやっと卵の殻を破った稚魚を見よ。目の前には無数の生命があり、その数と同じだけの予定された死があった。死は極めてありふれ

          浜離宮を歩き、死の恐怖を超えた……が、死よりも恐ろしいことに出会う……。

          我々は好きである嫌いであるで自らのアイデンティティを作ることがあるでしょう。好きなアーティストを並べてみたり、嫌いなもの苦手なものをファニーに書いてみたり。国も敵対関係で国民を煽ったりする。

          我々は好きである嫌いであるで自らのアイデンティティを作ることがあるでしょう。好きなアーティストを並べてみたり、嫌いなもの苦手なものをファニーに書いてみたり。国も敵対関係で国民を煽ったりする。