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静かに生きる。前期ウィトゲンシュタインの世界観。

 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。なんとも劇的でロマンチックなこの一文で締められるのが「論理哲学論考」。

 ここでいう「語り得ぬもの」には、どうもいくつかの種類があるように思えるが、要するに「無意味なこと」。言い換えると、「世界について何も語っていないこと」。例えば「今日も今日とて辛すぎる」と僕が言うのは、これは無意味なように見えるけど、有意味だ。これは「僕は辛い」という世界のことを描写しているからだ。
 無意味な命題として例にあがるのが、「神は存在する」という命題。別に「神は存在しない」というわけでもなく、そもそも「神がいるのかいないのか」問題は(神がこの世界を作ったという世界外の存在だという前提で)この世界の中において判定できるわけでもなくナンセンスである、ということだ。言語は世界のことを描写するものだ。世界外のことについては語れない……というわけだ。
 形而上学としてまとめられるような考え事は、前期のウィトゲンシュタインによって軒並み葬り去られた。ただ今僕らが投げ込まれている世界……これも無意味な言い回しかもしれない……僕らが生きている目の前の現実だけを見つめて生きていこう、ということだと思う。

 僕らは確かに語り過ぎているかもしれない。こと最近は、権威の失墜と価値観の多様化、SNSの発達(まさにこのnoteも……)によって、意味のあることないことが常に発信され続けている。この中にはきっと分断を深めるだけの無意味な主張も多いだろう。
 まあ後期ウィトゲンシュタインはこの主張を修正するらしいのですが、静かに。ただ生きるのに必要なことだけを喋って生きていた方が、心惑わされること少なく、ささやかな喜びを喜び、ささやかな悲しみを悲しむ生き方ができるのではないかとも思う。またこれも、無意味な議論である。

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