浜離宮を歩き、死の恐怖を超えた……が、死よりも恐ろしいことに出会う……。

 先週の日曜日。用事のついでに一人で浜離宮を散歩して、ぐるっと回って家に帰って酒をかっ喰らってぶっ倒れたわけだが、目覚めたところで、ある観念が胸に到来した。曰く、死など恐るるに足らないものである。
 池に浮かぶ小島で、季節から外れてか茶色く朽ちた藤の花を見た。その光景がありありと思い出された。不快な蚊柱の蚊を見よ。そこら中に生い茂った名も知れぬ雑草どもを、ようやっと卵の殻を破った稚魚を見よ。目の前には無数の生命があり、その数と同じだけの予定された死があった。死は極めてありふれた現象だ。虫は次の瞬間にはもう食われているかも知れないのだ。何が起こったかも理解しないままに。

 死から逃れようと試みるのは遺伝子の働きであり、そして死を恐れるのは意識の働きである。しかし、僕たちは死の何を恐れているのだろうか?
 考えた末に「苦痛」「意識の消滅」「喪失と離別」「不可知」の四つの恐怖があるのではないかと思い至った。これらはいずれも死に特有のものではない。我々が生きているうちにも散々経験するものだ。
 「苦痛」は言うまでもない。「意識の消滅」は(飲酒からの気絶のようなものだけでなく)睡眠という形で毎晩部分的に経験している。明日に目覚めない可能性だってあるのに、意識を失うこと自体は毎晩受け入れている。「喪失と離別」も「不可知」もそう。死の恐ろしい側面は、全て経験済みである。しからば死などというものも恐るるに足らない。まとめてくるからちょっと寂しいくらいのものだ。
 そして、死という個体の断絶すら恐れなくて良いのだとすると、この世のほとんどのことはまるで怖くないはずだ。「だから軽率に生きよう。そういうのが性に合っている」。概ねそのような結論を得たのであった。

 そういうわけで、向かうところ敵なしの心境になった僕は、ついに、前々から気になっていた赤坂の音楽バーに一人で行ってみることにした。何が起こっても大丈夫、死ぬのすら怖くないから。いざとなったらその場で舌を噛んで絶命してやれば良いじゃないか。
 そう思っていたのだが、入れない。雑居ビルのエレベーターホールで延々とその店について調べてしまう。なんかノリが違ったらどうしよう、おどおどしちゃったら、ぼったくりだったら……。十五分も迷った後、結局入らずにその場を後にし、一人でカラオケにでも行こうかと思ったのだがそれはそれで癪で、妥協して路地裏のショットバーに入ってみたところ、若いお姉さんの店員に馴れ馴れしく喋りかけられ、ドギマギするだけしてちょっと飲んで帰ったのだった。苦しいぜ。

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