めんどくさいので、また明日。
母から聞いたことがある。
私が3歳の頃のことだ。
高校時代に体操部だった父が、私に柔軟体操を教えようとした。
柔軟性がある方が生きやすいと踏んだのだろう。
その時3歳児である私が放った一言。
「めんどくちゃい」
母は愕然としたらしい。
この世に生を受け、たかだか3年しか生きていない人間から放たれる言葉とは到底思えない。
「めんどくさい」
果たして私はどんな顔で親を愕然とさせる一言を言い放ったのだろうか。
笑っていたのか、不機嫌なのか、それとも無表情なのか。
我が子で想像してみる。
自分の息子たちが3歳の頃の容姿で想像する。
「めんどくちゃい」
え?想像するだけでかわいい。
いや、かわいくない。
きっとこの発言は、3歳児だから許されたに違いない。
多分、これが5歳児だったら、厳しく指導されたと思う。
そんな私の口癖はめんどくさい、だ。
三つ子の魂百までである。
多分、百歳まで言い続けるだろう。
しかし、一体何が臭いというのだろう。
面倒が臭いというのはどういうことだろうか。
かの有名なあの宮崎駿氏は、面倒臭いを連発するのでも有名だ。
巨匠のめんどくさいは、奥が深い。
某フェッショナルで、テレビカメラを前にめんどくさいを連発していた。
「めんどくさいなあ」
「まことにめんどくさいよね」
「あー 面倒くさい」
「何が面倒くさいって、究極に面倒くさいよね」
くさくない。全然、臭くない。
ただただ、かっこいい。
面倒くさいと言いながら、素晴らしい芸術作品を生み出しているではないか。
比較するのはおこがましいが、巨匠が奥の深いめんどくさいを連呼する一方で、私はというと、
「茶碗洗うの、めんどくさい」
「朝礼すんの、面倒くさい」
「傘をさすの、めんどくさい」
と言う。
傘をさす件に関しては、大雨であれば流石に傘はさすようにしているが、それ以外は基本的に傘はささない。
傘を持つ行為がめんどくさいのだ。
雨は避けれるを自負している私は、右肩に落ちる雨を瞬時に避けるようにしている。
これは、ほとんどの場合において、成功する。
だがしかし、右を避けたとほとんど同時に左に落ちてくる雨が肩に当たる。
実は、どこかの雨を避けたとしても、降り注ぐ全ての雨を避けることは難しい。
それに、雨はどこまでも私を追いかけてくる。
雨は避けられない。
傘を持てば済む話ではある。
ただ一つだけ言わせてほしい。
雨は降るのだ。
天のめぐみである。
そう。
私は天からのめぐみを一身に浴びているのだ。
というメンタリティで私は生きている。
だから私は傘をささない。
しかし、これを繰り返した結果、次男に傘をささなくてもいいという刷り込みが行われてしまった。
流石に反省した私は、最近では親としての役割だと気持ちを改めて、傘を可能な限りさすように努力している。
けれども、次男の傘をささないという確固たる意志を覆すことは、今日現在、まだできていない。
とはいえ私は次男に傘をさすことは強要しない。
なぜなら、面倒くさいからだ。
ほら、私のめんどくさいは、何も生み出さない。
それにしたって、面倒くさいの語源は何なんだろうか。
いや、調べない。
絶対に調べない。
調べるのなんて、面倒くさい。
面倒くらいなら、なんとなく想像できる気がしないでもないが、問題は臭いである。
どこからか何かが臭ってきそうである。
しかし、何が臭いのかはわからない。
あー、やっぱり、めんどくさい。
考えるのがめんどくさい。
正直、noteのネタを考えるのも面倒くさい。
ということで、めんどくさいので、また明日。
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