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深呼吸と煙

わたしはその時、緑が生い茂る場所にいました。

桜はすでに全ての花びらを散らしていて、にょきにょきと生えてくる葉っぱが空を覆っていました。
その場所に一歩足を踏み入れると、少し空気が冷えているような気がしました。

よく考えてみると、冷えているとは違う気がします。熱がこもっていないというか、風通しがいいというか。

世の中は様々な熱に浮かされていますから、その一帯だけはしんと空気が澄んでいることが心地いいと、わたしは感じているのです。

はぁっと大きく息を吐くと、すぅっと息が体の中に入ってくるのがわかりました。

ひたひたの水を柄杓で注いで、手を洗いました。水で手を洗うと、先ほどまでわたしにまとわりついていた禍々しい感情までもが洗い流されるような気がしました。

賽銭箱のそばを見ると、線香とマッチが置いてあります。

わたしは賽銭箱に賽銭を入れ、手を合わせました。いくらか余分に賽銭箱に銭を入れて、線香を一本手に取ります。もう片方の手でマッチの箱をとりました。

どうにか器用に両手を使って、線香を持ちながらマッチを擦りました。小さな木の枝についた頭に火がぼぅっと灯ったので、わたしはすぐにその火を線香に移しました。

深い緑色の線香の先がじじじと紅く染まり、ゆらゆらと火を保ちます。そして一筋の煙を空へと伸ばしました。わたしはその煙をゆっくり吸い込みました。

煙がゆらゆらとわたしの周りにまとわりつきます。

「おい。景気が悪いようだな」
わたしは急な声に驚きました。
「な、なんですか?」
宙に向かって話しかけました。
「景気の悪い顔をしてるから、景気が悪いと言ったのだ」
線香の煙がゆらりと揺れ、答えました。

そこでやっとわたしは線香の煙に話しかけられたと気づきます。
まったく失礼な煙だと、わたしは小さく舌打ちをしました。

「景気の悪い顔とはどのような顔なのですか?」
わたしは煙に尋ねます。
「お前みたいな、ドヨンとした鈍色の顔のことを言うのだ」
自分も鈍色みたいな煙のくせしてよく言うなとわたしは思いました。

「鈍色の顔とはどんな顔ですか? あなたが答えているのは色の話で、質問の答えではありません」
わたしがそう言うと、明らかに煙の表情が変わったのがわかりました。

「煙の俺をケムに巻こうとはいい度胸だ」
煙は一瞬、ゆらっと大きく揺れてから急にケタケタと笑いだしました。
わたしは煙の豪快な笑い声につられて、思わずぷっと吹き出しました。

すると、じじじと燃えていた線香の先の火が、ふっと消えました。ゆらゆらと立ち昇っていた煙は、痩せ細って、まるで蜘蛛の糸のようになりました。

わたしは右手に持っていた火の消えたマッチ棒を器に捨てると、線香を鉢に差しました。

線香はまっすぐに上を向いて、じじじと煙を燻らせています。

わたしがそれをじっと眺めていると、線香の先が灰になり、そしてぽとりと鉢の中に落ちました。

わたしは息を吸いました。
少しばかり懐かしい匂いがして、私は思わずはぁと息を吐きました。


どこからか風が吹きました。
線香の煙はゆらゆらと天に昇っています。




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