見出し画像

イッセーあるいはエセイ

 私は今日も泣いている。
 まあ、なんでこんなにも毎日毎日泣けるのだろうか。いや泣いてなんていない。周りの温度が高すぎて、私の中で溜まりに溜まったアルコールが結露して、ただ、目から溢れているだけだ。きっとそうだ。私は毎日なんて泣いていないんだ。
 noteを始めてから、私はエッセイとはなんぞやと考えていた。とりあえず、なんとなく自分のことを書いて、何かそれっぽい学びになるかもしれないなんぞやを書けば、エッセイと名乗っていいのだと、そんな気持ちで書いていた。
 どうせ書くなら、日記よりエッセイの方が、世間のためになっているような気がして心地いい。だって、インターネットで調べてみたらエッセイとは「思索や意見、感想などを形式にとらわれず、簡潔に述べた文学の一ジャンル」とされている。
 では、私の書いているものはきっとエッセイに違いない。なんかかっこいい。
 しかし、正直に言うと私はエッセイたるを知らない。もう少し知ってみてから、エッセイを書いていると言った方がいいのではないかと思った。
 この三連休は、特に私には何か大きなイベントごとはなかった。土曜日には他所の部署のイベントに借り出され二万三千歩も歩く羽目になり、日曜日はその疲労もあり何もできなかった。土曜日に仕事をしたこともあって、日曜日を土曜日と勘違いしてしまうほどだった。おかげで、今日は月曜日ではなく日曜日気分で一日を過ごした。木曜日までその感覚が続けば、私は今週、一日得をしたことになる。
「え?もう金曜日?まだ木曜日だと思った」とわざとらしくニコニコしている私が安易に想像できる。
 そんな得をした海の日である今日、特に海には行かなかった。この三連休に何もしないのも寂しいので、庭でバーベキューをしたが、遠方に出かけることはなかった。クソ暑い中のバーベキューは楽しかった。私は夏生まれなので暑いのは好きなのだ。夫や子どもたちがへばっている中、一人だけ元気に楽しんだ。
 ちょっと大袈裟だった。夫も息子たちも楽しそうだった。暑そうだったけど。
 三連休に予定がなかった私は、エッセイとはなんぞやと思い、書籍化されたエッセイを読んだ。私は自分のことを若干変態みがあると思っているので、あえて変態の大先輩だと思っている星野源さんの「よみがえる変態」を選んだ。
 これを読んで、私は全く自分が変態なんかじゃなくてどノーマルだったことに気づいた。そして、私は改行や行間に頼っているのではないかと、自分の書き方に疑問を抱いた。縦書きと横書きの差はあるかもしれないが、行間で読み取ってくれと思っている節があることは自分で知っていた。行間なんてないものを読むと、ああ、実力の差、それは月と海底ほどに遠い。
 そのため今日はなんとなく、その悔しさを晴らすために可能な限り改行もせず、行間も開けず、思いの丈を認めている。たぶん、明日には飽きる。間違いない。
 しかし、私の書いているものはエッセイなんかじゃないのではないかと思った。あれをエッセイと言うなら、私の書いているものはイッセーだし、エセイだ。エッセーやエッセイに擬態した何かではないかと。
 比べる対象が違いすぎるよと思うが、今日もアルコールをそれなりに摂取して酔っぱらっているので仕方がない。そう、今日も自分に酔っています。
 よみがえる変態は、星野源さんがくも膜下出血になる前後に書かれたエッセイだ。真っ黒いページ、痛いとだけ書かれたページを開いた時には、その時がくるとわかっていても胸が苦しくなった。
 後に新垣結衣と結婚できるとわかっていても、私は星野源にはなりたくない。人生の高低差が激しすぎる。私には耐えられない。それに大先輩だと思っていたのに、同学年だった。先輩なんかじゃなかった。親近感など湧くはずがない。人生の次元が違いすぎる。
 まあ、私は星野源じゃなくてよかった。普通の人生でよかった。高低差が少ない方が、耳鳴りもしない。きっと面白みはないが穏やかな人生が送れているはずだ。私ではその高低差は耐えられるわけがない。
 そう慰めながら、日曜日の気分で月曜日の番組を見て眠る。





この記事が参加している募集

#ほろ酔い文学

6,049件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?