見出し画像

吾輩は羊になる

吾輩は犬である。名前はポッキーである。

吾輩は吾輩のことを犬であると自覚して生きているわけではない。この家の人間たちが吾輩のことを犬であると言うので、きっと人間たちの世界の中では吾輩は犬という種類のものであるのだろうと推測しているに過ぎない。

ここ数日、いつもは昼間出かけて行く人間たちがずっと家にいた。慌ただしそうに何かを出したり片付けたりしている様子が伺える。最終的に片付けるのであれば、端から出さなくてはいいのではないかと思うのだが、人間のやることは吾輩には理解できない。

吾輩がかつて住んでいたガラス張りの部屋はとても狭かったが、片付けは不要であった。いつもきちんと整理整頓されており、さらには様々な犬や猫が住んでいた。そしてそこには、吾輩の体調を管理してくれる者や吾輩の毛並みを整える者がいた。そのころは少なくとも月に一度は毛並みを整えてもらっていたと思う。吾輩はそれが好きなのである。温かい湯の中に入り、いい匂いのする泡を纏う。それはそれは体がすっきりとして良いのである。

しかし、この家に来てからというもの、風呂には週に一度入れてもらうが、毛並みを整えてもらうということはなかった。吾輩の毛は伸び放題で、足裏から顔までもじゃもじゃとし、遂には視界が狭くなった。

吾輩を産んだわけでもないのに、自分のことをおかんと名乗る人間が、何か音のする硬そうな骨のようなものを持ち出したことがあった。それを持ち出した時、食事の時間でもないのに吾輩におやつをくれるというので、尻尾を動かしつつ着いていくと、吾輩が餌を口にしたその瞬間、おかんはがしりと吾輩を掴んだ。

「かかったな」
おかんはにやりと笑った。

この人間は、基本的にタチが悪い。餌でおびき寄せておき、吾輩を拘束する傾向にあるのだ。その日もそうであった。吾輩は何をされるかもわからず餌を食らっていた。こういう時は味がずっとするそしてなかなか飲み込めないものを渡される。吾輩がむしゃむしゃとおやつを噛んでいると吾輩の足の裏をあらわにして、そこにぶいいいんと音のするものを当てる。よくわからぬが吾輩は非常に不快であった。吾輩は、あっという間に餌を食べ終わると、おかんの腕の中から逃げ出すことに成功した。

あの人間は吾輩を完全に舐め切っているのだ。吾輩は人間たちの思い通りになどならんのである。あれも吾輩の毛並みを整えようとしていたに違いないが、素人には難しい行為なのである。吾輩は慣れていない人間に毛並みを整えさせることを認めない。

そして話を戻すが、人間たちがやたらと家の中にいたある日のこと。人間たちが黒い上着を着、そして吾輩を手招きする。吾輩を散歩に連れ出すのだろうと着いて行くと、吾輩は黒い怪物に食べられた。吾輩は今日はどこまで連れて行かれるのであろう。吾輩はまた新しい公園にでも連れて行ってもらえるのだろうか。

そんなことを考えていたら、黒い怪物はよくわからぬ大きな大きな建物の中に入っていった。吾輩とは似ても似つかぬ風貌であり、血のつながりなど皆無であることは容易に想像もできるのに自分のことをおとんと名乗る人間が吾輩を抱き抱えた。黒い怪物に乗せられた時点で、吾輩は気づくべきだった。今日は散歩の時に使う長たらしい紐が吾輩の首付けられていないことを。

明らかに散歩ではない。

おとんは吾輩を抱いたまま、何やら吾輩が好きそうなものが大量に並べてあるところに行き、そして優しそうな女の人に吾輩を渡したのだ。なんてことであろうか。吾輩を別の人間に渡すとは。日々、吾輩を可愛い可愛いと愛でている人間がする行いであろうか。

しかし、吾輩は動じない。吾輩はどんな人間とも仲良くなれるという習性があるのだ。それはこの生きずらい世の中を生き抜く知恵である。吾輩はその女の人の胸に抱かれ、なすがままに体を洗われ、そして毛を刈られ、何やら勝手に水が出てくるところから水を飲み、そして写真を撮られた。何やら優しそうな女の人が真剣な顔をして、さらには吾輩を丁寧に扱ってくるので吾輩は良い気分になり、小さな箱の中で眠ってしまった。

すると突如、吾輩は眠りから起こされた。気持ちよく寝ていたというのに。吾輩は優しい女の人の胸に抱かれ、そして気づけばおとんに抱かれていた。おとんもおかんも吾輩を見て大層喜んでいた。可愛い可愛いと言っている。いつものことなので吾輩としては特に気にも留める必要はないのだが、その喜びようは凄まじく、吾輩もその声を聞いて気持ちよくなった。視界も明るく、体もすっきりしている。

吾輩は再び黒い怪物に食べられて、そしてまたいつもの家に帰ってきた。吾輩を待ち受けていた吾輩の兄と名乗る二名が、これまた吾輩を見て喜んでいる。羊だ、羊だと、言っている。

ついさっきまで吾輩を犬だと言っていたのは一体何だったのだろうか。吾輩は犬ではなかったのであろうか。まったく人間の考えることは吾輩にはよくわからない。

どうも毛並みを整えると吾輩は羊になるらしい。

吾輩は羊になる。吾輩は羊になったのである。しかし、名は変わらない。吾輩はポッキーである。





この記事が参加している募集

我が家のペット自慢

ペットとの暮らし

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?