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本腰入れずともいいのでは。

存外、片手間で書いたりする方が、楽しいエッセイが書けちゃったりするから創作は泥沼のSMプレイである。

本腰入れてパソコンの前に立ち、いや、座り、眉間にシワ寄せながら「うう。」っと産み苦しんでみても出てくるものは、吹けば飛んでいくような浅いものばかりで、なんだか良くはない食生活の賜物である便秘みたいな気分になる。

往々にして、ドライブなんかをしている時は、恋人とも会話も弾むもので、なんだか結局のところ創作もそんなもんなんじゃないかと思うのだ。

本腰入れれば入れるほど車で言うところのRとNとDをガチャガチャやっているのだ。ときおりDに全くギアが入らなくなるのは何でなのか、あの現象に名を付けたい。

ちゃんとDに入れてアクセルをじんわり踏めばよいものを勢いよくデスクに座り、いや、椅子に座って考えなしにパソコンとお見合いしたところでは、「休日は何をしていらっしゃるんですか。」「あ、お菓子作りを。」「…」的な目も当てられんお見合いみたくなるのだ。

軽い気持ちで友達をドライブに誘って、速度標識40の道を「10キロまでなら捕まらない」というお決まりの謎理論を引っさげ50キロでひた走り、流れる景色に身を任せながらの会話はさくさくとまさに車の推進力に比例してぐんぐん前進するのだ。

本腰って何なのか。

そもそも人には準腰だとか、腰2ndだとか、偽腰なんてものがあるのかと言う話になる。

創作は、自身の生活と地続きであるはずなのだ。

創作するときだけ「さて、本腰入れるべ。」なんてかっこつけたところで、入れ方も分からなければ、「ところで本腰って結局、何なのか。」ということになってしまうのだ。

右手でハンドルを操り、左手で彼女の右手を預かり、なんだかよくわからないけど前進する景色と会話のように創作をしたい。

本来、運転の目的は、会話ではなくて移動にある。

移動ついでの会話よりうまいこといく会話を私は知らない。

えてしてそんな風な、本腰入ってないけどうまくいくなんてことはあるのだ。

創作に行き詰ったら、創作ではないことを頑張るといいのだ。

たとえば、親にばれずにお風呂で読書するとか、そんなことの連続が、私達の日常に肉を付けていくのだ。

「どうせ移動するなら、恋人との愛深めちゃえ。」

そんなんが、大事なんだと私は思う。

本腰が何かも分からなければ、どこに入れるかも分からない。

本腰に踊らされる日々は、今日でおさらばかな。


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