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『偽る人』(揺れる) (第86話)

下り坂

 二月の九七歳の誕生日を前にした冬、房子はちょっとしたかぜをひいた。恭子もひいた。どちらが先だったか分からない。
 微熱は出たけれど、大したこともないと思ったのに、数日咳が続いた後、房子は痰が喉にからんで、いつまでも苦しそうだった。
新しく替わっていた年配の訪問医が、いつも処方しているたくさんの薬に加えて、抗生剤も処方してくれた。咳止めや痰切りの薬も飲んだ。けれど、なかなか治らない。痰が喉にひっかかったままの房子は、ひっきりなしにグエグエと、耳障りな音を立てていた。
 思えばそのかぜが、房子の「最後」の始まりだったのだ。思い返してみて、恭子はそのかぜを軽くみていたことが悔やまれた。
百歳に近づいているとはいえ、それまで強い房子を見てきた恭子は、房子が重篤な病気になる、もしくは死が訪れるなど、現実のことになるとは到底思えなかった。房子はこれまでも、痛い、苦しい、死ぬ、と何度も騒ぎ、恭子達を振り回してきた。そのたびに房子の大げさな演技にうんざりしてきていた。
 訪問医が帰る時に、玄関に見送りに出る恭子に「もうそれほど長くはないです」と耳打ちしても、どこかで(房子に限って)と思っていた。

 ところが、そのうち房子の様子がおかしくなってきた。「オスの猫が2匹いる」とか、「〇〇さん、花火を上げて!」とか妙なことばかり言う。ぎょっとしたけれど、最初はいつもの房子の演技かとも思った。
テーブルの前に座っていても、房子は飲んだはずの薬を手探りで探している。突然手を挙げて天井を指したり、訳の分からない独り言をぶつぶつつぶやき続けた。
 房子は体力こそ衰えてきてはいるけれど、頭は確かなほうだった。それが、急におかしくなり、恭子はとまどった。半信半疑で、知り合いの何人かに頼んで房子と電話で話してもらったけれど、時々は普通でもあり、微妙だった。
 ところが、症状はどんどんひどくなり、房子は寝たきりになってしまった。一日中眠り続け、目を薄く開けても、普通の会話は一切ない。寝ながらひとりで何やらしゃべり続け、大きな声でうわごとも言う。目の前の相手が誰だか分からず、房子は喜怒哀楽のない能面のような顔をしていた。
 
 「認知症」について、恭子は勿論知っていた。けれど、これほど急に来たことにあわてた。あんなに頭のしっかりしていた人が、と信じられなかった。
ベッドのわきで、魂が抜けたような顔をしている房子を見ていると、痛ましくて、恭子は涙が出てきた。寝たきりになる方が、まだましだった、と思う。このまま房子が訳も分からない人になってしまうのかと思うと、絶望的な気持ちになった。そんな覚悟なんて、できていない。
恭子は房子が心配で、それから数日、房子のベッドの下に布団を敷いて寝た。
 そんな時に、訪問してくれていたケアマネの工藤さんが、「大丈夫ですよ。体の水分が足りなくなった時に『せん妄』が起こりやすいですが、治りますよ」と言ってくれたのだ。本当にありがたい言葉だった。
工藤さんは、助産婦の仕事もしていたことがある経験豊富な、割合年配のケアマネさんだ。工藤さんの言葉には説得力があった。
工藤さんが言うには、『認知症』と『せん妄』は違う。房子の症状は、『認知症』ではないと言う。絶望的になっていた恭子に、明るい気持ちがやっと少し戻った。

 工藤さんが言った通り、房子はその後、意識は次第に戻り、以前と変わらない会話ができるようになった。本当にうれしかった.。
 けれど、房子の体は、その時を境に、みるみる衰えた。かつての元気な房子には二度ともどらなかった。

 それでも恭子は、房子がまた元通りに力強く復活すると思っていた。九十六歳という年齢を考えれば、その先に明るい見通しがあるはずもないのに、房子に限って、死に近づいているとは、到底思えなかった。
 房子はちょっと歩くとはぁはぁ息切れした。食も急激に落ちて、ほんの少ししか食べられなくなっていた。
 恭子は、房子の調子をみて、天気の良い日にはなんとか外に連れ出そうとしてみた。少しでも陽に当たる方が体にいいような気がしたのだ。けれど、房子は押し車につかまっても、もう数歩歩くのがいいところだった。

 それでも房子は最後まで強い人だった。
年末には、二階に移動した大画面テレビで一緒にNHKを観るために、房子は久しぶりに、一段一段、はぁはぁ言いながら階段を上った。房子の体を考えると、無理をさせることを躊躇したけれど、一階で一緒にテレビを観るには場所がない。できればみんなで年末を過ごしたかった。
房子の意思を確かめると、自信なさそうではあったけれど、それでも一緒にテレビを観て過ごしたい気持が分かった。
房子のために思い切り温かくした部屋で、房子は半分以上ソファーで眠りながらも、満足そうだった。
 恒例になっている恭子の子供達とのおおにぎわいの年始の集まりにも参加した。亜美が数年前に購入した大きな家で、房子は自分の皿に盛ってもらったたくさんの種類の料理を少しずつ食べ、その後、別室に敷いてもらった布団で、気持ちよさそうに眠っていた。

 その後房子はどんどん食べられなくなっていった。食べても戻してしまう。ゼリー状の栄養価の高い物を、少しだけ食べた。
医師も、もうあきらめているようだった。苦しい時にはこれを使うようにと、睡眠薬の座薬を処方してくれていた。

 けれど、体がそんな状態になっても、房子の強さは健在だった。
 こんなこともあった。
 ある夜、房子がベッドから、隣りの台所にいる恭子を呼んだ。房子は、手の感覚がない、痛い、と訴えた。房子はベッドの中で両手を丸め、顔は苦痛で歪んでいた。
 痛いとか、苦しい、と訴える房子はいつも、地獄の釜にでも入れられているようなすさまじい顔をする。顔のすべての皺を歪め、目をぎゅっとつぶり、入れ歯を外した唇を、あえぎ声とともにパクパクさせる。
 恭子がそばに行って、どうしたらいいか尋ねると、房子は分からない、と言った。
 恭子はその時、自分も足を痛めていた。たてつづけに骨折や捻挫をしていた上、房子の荷物の片づけ以来、坐骨神経の痛みに苦しんで、長くは立っていられない。ベッドの枕元に腰をかけて、房子の両手をぎゅっとつつんだり、さすったりしてみた。
 房子の細くて長い指は、骨の上に薄い皮が波のようによれてまとわりついているだけで、強くさすったら、ポキッと折れてしまいそうだった。五本の指は不揃いで、短くなっている指もあれば、第一関節から内側に曲がってしまっている指も何本かあった。
 気をつけて触らないと、痛がるし、折れそうだから、恭子は房子の枕元で注意深くさすり続けた。
 しばらくさすってから、恭子は手首の下の方からさすってみようと思って、右手を房子の体の反対側に回そうとした。
その時恭子は、房子が昔編んでくれた毛足の長い赤いモヘアのセーターを着ていた。
 恭子の右手が、房子の顔の上を動いた。顔から30センチは離れていた。
 ところがその時、
「目に入る!」
と、鋭い声をあげて、房子の手が恭子の右手を強く払いのけたのだ。びっくりした。
 なんという力だろう、と思った。手の感覚がない、とか、痛いとか訴えていた、あの枯れた手の老人が。
 目に入りそうな気がするなら、目をつぶればいい。顔をそむけたっていい。何も、強い力で払いのけなくたって・・・。
 この、房子の強さを何度見てきたことだろう。弱って死にそうな房子を見るのも辛いけれど、房子のこの強さを見せつけられるたびに、恭子の気持ちは萎えてしまう。さっきまでの、なんとかしてあげたい、という気持ちが、どこかに行ってしまうのだ。

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登場人物紹介

恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。

卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。

房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。

幸男:房子の長男。恭子の兄。若い頃から問題行動が多かったが、房子に溺愛され、生涯援助され続ける。仕事も長続きせず、結局房子の塾の講師におさまる。

悠一:房子の実弟。房子とかなり歳が離れている。

やすよ:幸男の嫁。人妻だったため、結婚には一波乱あった。房子は気に入らず、ずっと衝突し続ける。

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