柳夏衣(やなぎかい)

書くことに取り憑かれた70代の女性です。 これまで童話や児童小説で何度か賞をいただきま…

柳夏衣(やなぎかい)

書くことに取り憑かれた70代の女性です。 これまで童話や児童小説で何度か賞をいただきましたが、こんなに長い物を書くのは初めてです。 書いた物を通して、見知らぬ方達と繋がることを夢見ています。

最近の記事

『偽る人』(揺れる)

母の亡霊にいつまでも  小さな簡易机の上で、恭子はパソコンを開いたまま茶色い手帳をめくっていた。  一年ごとに簡単なスケジュールと毎日のメモが書き込めるその手帳は、去年亡くなった母親の房子が残したものだ。房子は九〇歳を過ぎても老眼鏡をかけて本を読み、判読し難い小さくくにゃくにゃした文字で手帳に毎日なにがしかのメモを書き込んでいた。 亡くなってから、房子が残したおびただしい荷物や書類を整理していったが、とても整理しきれない。何冊もある手帳や金銭出納帳、銀行や郵便局の通帳、日記

    • 編集後記

       長い物語に最後まで付き合ってくださって、ありがとうございました。  読者の方は、亡くなるまで他人の前で「仮面」をかぶり続けた房子に驚き、そういう房子に翻弄され、気持ちを揺さぶられ続けた恭子に、「何故、又許すの?」と疑問に思ったり、苛立ったりすることも多々あったかと思います。  房子は、生まれつきの天才的な「策士」であったのかもしれません。 その房子を否定しながらも、説明できない感情に押し流され、時に百八十度気持ちが変わってしまう。 「揺れる」本質は、「人の弱さ」その

      • 『偽る人』(揺れる) (第89話)

        そして  房子の晩年に、恭子がよく考えていたことがあった。それは、ずっと気持ちが揺れ続けていた恭子が、房子がいつかもし亡くなったら、いったいどちらの気持ちになっているだろうか、ということだった。 房子の死を深く悲しみ、もめごとの多かった日々を後悔し、やってあげられなかったことを数え上げて泣き続けるだろうか。あるいは、常に自分ファーストで、強く、冷たかった房子のことを思い出して、恨んでいるだろうか。あれほど母性の欠落した母親も珍しい、と、恭子は今でも思う。  亡くなり方があま

        • 『偽る人』(揺れる) (第88話)

          とうとう・・・(2)  それから朝まで少し眠ることができた恭子は、階下に下りて、居間の戸を開けた。房子は眠っていた。 がたがた大きな音をたてる枕元の戸を開けても、房子は眠っているふりをすることがよくある。いつもと同じだと思っていた。またぁ、起きているんでしょ、と思いながら、 「おかあさん、おはよう!」 と言った。もう一度、大きな声で「おはよう!」  耳元でもう一度。それで恭子はやっと気づいたのだ。房子が冷たくなっていることに。触って確かめなければ分からないほど、房子は普段眠っ

        『偽る人』(揺れる)

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        • 『偽る人』(揺れる)
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          『偽る人』(揺れる) (第87話)

          とうとう・・・(1)  九十七歳の誕生日を過ぎて、三月の終わり、デイサービスの施設から電話があった。しばらく休んでいるので、登録を抹消されてしまうという。新たに登録し直すのはまた面倒なようだった。施設の人も、房子の体を考えて、迷っていた。 房子に訊いてみると、明確な返事がない。行きたいようでもあり、自信がなさそうでもあった。 房子はずっと風呂に入っていない。恭子が温めたタオルで体を拭いてあげているだけだった。施設なら、椅子に座ったまま湯に入る機械浴の設備もある。それを期待して

          『偽る人』(揺れる) (第87話)

          『偽る人』(揺れる) (第86話)

          下り坂  二月の九七歳の誕生日を前にした冬、房子はちょっとしたかぜをひいた。恭子もひいた。どちらが先だったか分からない。  微熱は出たけれど、大したこともないと思ったのに、数日咳が続いた後、房子は痰が喉にからんで、いつまでも苦しそうだった。 新しく替わっていた年配の訪問医が、いつも処方しているたくさんの薬に加えて、抗生剤も処方してくれた。咳止めや痰切りの薬も飲んだ。けれど、なかなか治らない。痰が喉にひっかかったままの房子は、ひっきりなしにグエグエと、耳障りな音を立てていた。

          『偽る人』(揺れる) (第86話)

          『偽る人』(揺れる) (第85話)

          衰えた日々  ある日、薬局に房子の薬を取りに行く時に、房子から投函するように頼まれた絵手紙を見て、恭子はがっくりした。  薬を待っている間に、何枚かの絵手紙の絵を見ていた。相変わらず、房子の絵はうまい。 ピンクのユリや、庭のさざんかの花が、墨と絵の具でのびのびと描かれている。  けれど、その絵の横に書かれた短い文を読んで、ショックを受けた。時に判読し難い房子の癖のある字で、 「怪我をして、《施設から》やむなく娘の所にもどりました」 と書いてあるのだ。なんてことを言う

          『偽る人』(揺れる) (第85話)

          『偽る人』(揺れる) (第84話)

          家に帰って  後から思い出しても、家に帰ってからの数日が、初めて房子と心が通い合う、穏やかで、幸せな日々だったと思う。  房子は素直で、よく話をした。恭子も、今度こそ房子と心がつながる、と思えた。  ところが、元気だった房子の様子が、だんだん変わっていった。はあはあと息遣いが苦しそうになってきたし、表情もまた、以前のように暗い。施設に入る前に通っていた内科を受診すると、肺に水がたまっているようだと言う。  それからまた入院ということになった。今度はS総合病院より少し恭子の家

          『偽る人』(揺れる) (第84話)

          『偽る人』(揺れる) (第83話)

          房子の入院・そして、また家に(2) 家に帰って伝えると、案の定、みんな大反対だった。特に、房子のひどい行為や冷たさを実際に見てきた亜美は、強く反対した。 「帰る理由を、関係ない私の家のローンのお金にかこつけるなんて、ずる過ぎる」と怒った。 「おかあさんは、また、おばあちゃまの打算やお芝居にうまくだまされてるんだよ」 と言った。 久美も、 「おかあさんがどれだけがんばっても、おばあちゃまはまた、感謝もしないよ。おかあさんの自己満足だよ」 と言った。  卓雄は反対もしなかった。恭

          『偽る人』(揺れる) (第83話)

          『偽る人』(揺れる) (第82話)

          房子の入院・そして、また家に(1)  ある日、施設から電話がかかってきた。四月の終わりごろのことだった。  房子が部屋で転倒して大腿部を骨折したという。施設の近くの病院に、施設のスタッフが付き添って行ってくれていた。  その病院に、恭子が通うには遠いので、なるべく近くの病院を探して、替えてくれるようにお願いした。かくして、房子は介護タクシーで、ストレッチャーに乗せられて最寄りの総合病院に運ばれてきたのだ。  幸男にも連絡した。卓雄と恭子が付き添っている病院に、幸男も後からか

          『偽る人』(揺れる) (第82話)

          『偽る人』(揺れる) (第81話)

          施設での日々 4(2)  平日なので、卓雄はいない。久美が送っていこうかと言ってくれたけれど、帰りは夜になってしまうし、久美だって子供達がいるので、迷惑はかけたくないので断った。 来る時は、卓雄の車だったので楽だった。けれど、房子の荷物は結構あったので、支度 にも時間がかかった。その上、房子はまた買い物がしたい、という。それが大変なことになった。  タクシーで駅まで行くのなら、まだ楽だった。けれど、房子は、乗り換えがない別の電車のルートがいいと言う。その駅まで行くのは遠いので

          『偽る人』(揺れる) (第81話)

          『偽る人』(揺れる) (第80話)

          施設での日々 4(1)  一月の末に、房子が久しぶりに家に帰ってきて泊まった。房子が家でおいしい物が食べたい、と言ったからだった。一泊かと思っていたのに、結局四泊もした。  家に泊まりたいという房子の言葉を聞くと、恭子はうれしくなる。何でもしてあげたい気持になった。  夕飯には、すき焼きや、刺身、カニを出した。山ウドやふきのとう、タラの芽などの山菜で、天ぷらを作った。牛ヒレ肉で、ステーキの日もあった。まるで、正月やクリスマスのようなご馳走だった。  朝食には、以前房子が家にい

          『偽る人』(揺れる) (第80話)

          『偽る人』(揺れる) (第79話)

          施設での日々 3  次の週に施設を訪問した時に、房子に電池パックを交換した携帯電話を渡した。房子にしたら、電話がない一週間は、相当不自由で不安だったはずだ。家から離れても、電話さえあれば、房子は得意の舌で、誰とでも親しくつながっていた。  着物のことなど、房子に訊きたいことはたくさんあったけれど、訊いても忘れたふりをするので、恭子は諦めていた。久美のことといい、胸にわだかまりが残ったままだった。  それでも、施設の部屋に着くと、恭子はしなければならないことがたくさんあった。

          『偽る人』(揺れる) (第79話)

          『偽る人』(揺れる) (第78話)

          施設での日々 2(2) 房子に購入を頼まれたもので、かわいい物があった。「しゃべるぬいぐるみ」だ。施設の誰かが持っているのを見て、うらやましくてたまらなくなって、恭子に買って欲しいと頼んできた。  ネットで調べると、それは、テープレコーダーが内臓された子供用のぬいぐるみだった。犬や猫など、いろいろある。単純なしくみで、割合安価だった。 房子に送るとたいそう喜んで、「かわいいのよ~」と、珍しく明るい声を出した。  かわいいと言っても、テープレコーダーだから、しゃべった声を繰り返

          『偽る人』(揺れる) (第78話)

          『偽る人』(揺れる) (第77話)

          施設での日々 2(1)  房子がいなくなってからも、恭子は相変わらず忙しかった。 亜美に4人目の子供が生まれて、一週間ほど孫ふたりを預かったりもした。いたずら盛りの子供達の世話は、六十代半ばにもなると、さすがに体はきつい。けれど、ひとりで奮闘している亜美の体も心配だった。 留学生のホームステイは既に止めていた。食事の支度をするのが辛くなってきたのと、家を空けられないことが大きな理由だった。  施設に行ってから初めて迎える正月、一日に卓雄ひとりで房子を迎えに行ってもらうことに

          『偽る人』(揺れる) (第77話)

          『偽る人』(揺れる) (第76話)

          施設での日々  施設には毎週のように通った。たいてい卓雄の車で行く。そうすると、片道一時間かかるから、休日が半日つぶれてしまう。卓雄が不満を言うわけではなかったけれど、申し訳ないと、いつも思っていた。  けれど、ある日、施設から帰る車を運転しながら卓雄が言った。 「おかあさんもさぁ、もっとうれしそうな顔をしてくれるとか、ありがとう、と言うとかしたらいいんだけど・・・」  普段そんなことを言わない卓雄の言葉に、恭子はびっくりした。けれど、それは当然の言葉だった。来るたびに

          『偽る人』(揺れる) (第76話)