『偽る人』(揺れる) (第85話)
衰えた日々
ある日、薬局に房子の薬を取りに行く時に、房子から投函するように頼まれた絵手紙を見て、恭子はがっくりした。
薬を待っている間に、何枚かの絵手紙の絵を見ていた。相変わらず、房子の絵はうまい。
ピンクのユリや、庭のさざんかの花が、墨と絵の具でのびのびと描かれている。
けれど、その絵の横に書かれた短い文を読んで、ショックを受けた。時に判読し難い房子の癖のある字で、
「怪我をして、《施設から》やむなく娘の所にもどりました」
と書いてあるのだ。なんてことを言うのだろう、と思った。「やむなく」だなんて。S総合病院で家に帰る、と言った時、房子は「やむなく」だったというのだろうか。それが本心であり、あの時恭子に言った言葉は、計算づくだったのだろうか。なんというしたたかな人だろう、と思った。
家に帰ってから訊いても、房子は勿論質問には答えない。顔をゆがめて、
「《恭子に絵手紙の投函を》頼まなければ良かった」
と言うだけだった。
房子のしたたかさは変わらなかった。演技するのも変わらない。
デイサービスに行く時に、恭子が玄関でかがんで靴を履かせていても、いつもなら当たり前のように黙っている。けれど、バスの世話係の人が覗いているのを知ると、途端に態度が変わる。
「ありがとう」「ありがとう」と、房子は何度もやさしく礼を言った。
恭子のことをお手伝いさんのように扱うのも、変わらなかった。
デイサービスに行く時に、忘れ物がある時に、玄関で、
「眼鏡が欲しい」
と言って、足の悪い恭子に階段を上らせるのも平気だった。
「悪いけど、取ってきてくれる?」などという言い方を、房子は最後までしなかった。
房子の付き添いで出かけて、疲れ果てて帰ってきても、房子は帰るなり、
「今日は、冷たいのが飲みたい」とか、「あっついお茶が飲みたい」と恭子に言う。
自分のことしか考えられないのも、ずっと変わらなかった。
再び家に帰ってきても、やっぱり房子は何も変わらなかった。「優しい老人」とはいかなくても、世間で見かける普通のおばあさん、普通の母親になることは決してなかった。
けれど、気の強さとは逆に、房子の体は目に見えて衰えてきていた。
以前から便を出す力が無くなって、自分で下剤や浣腸を使って、失敗をすることが多かった。下着からズボンまで総取り換えしている間に、がまんができずに床まで汚すことも何度かあった。
そうかと思えば、数日出なくて、「敵便」をしてもらうことも多くなった。「敵便」というのは、肛門から指を入れて、大便を摘出する行為だ。
最初に敵便をしてもらったのは、デイサービスでだった。その後、家で看護師に何度もやってもらった。恭子も手伝った。緊急事態で、恭子がひとりでやらなければならないこともあった。
食べたものが飲み込みにくかったり、痰がとれなかったり、便が出にくいのは、筋肉が衰えていくからなのだろう。そういう房子を見ていると、かわいそうになる。
しかし、それにしても、房子は自分の体の不調を、あまりにオーバーに訴え過ぎた。
少し転んだりぶつけたりすると、房子はすぐに骨折している、と訴える。歩けるなら折れていない、大丈夫だから、と言うと、不満そうに、ぶすっとして黙ってしまう。
片足の甲を骨折してギブスをあて、松葉杖をついている恭子が、卓雄に助けてもらって、車椅子に乗った房子を病院に連れて行ったこともあった。後になって思い出しても、妙な光景だった。
レントゲンの結果は、勿論何でもなかった。
目の痛みでも、房子は大騒ぎをした。房子は何の痛みにも、これ以上ないほどオーバーに痛がるのだ。
「目が痛い」「目がつぶれる」と言って、顔をしかめて死にそうな表情をする房子を、最初は卓雄の手を借りて、駅向こうの目医者に連れて行った。房子をどこかに連れて行くには、もう車椅子で行くしかなかった。歩くのは、ほんの少しの距離だ。
その最初の目医者で、何も異常がないと言われたのに、房子はもっとちゃんと診てくれる所がいい、と言う。もう一件の目医者にも行き、近くの目医者には、恭子が車椅子で連れて行った。
目医者に行くたびに、一、二時間待たされる。半日がつぶれた。あんまり繰り返すので放っておいたら、房子は、
「こんなに痛いのに!」
と、泣き真似までした。
卓雄が、
「行かないと、おかあさんはいつまでも言うよ」
と言う。仕方なく、ケアマネの工藤さんに紹介してもらって、かなり遠くの少し大きな目医者に行った。そこで何も異常がないことが分かって、房子はようやく諦めたようだった。
それにしても、大騒ぎをして、卓雄が仕事を休んで行ったというのに、房子は申し訳なさそうな顔ひとつしない。それどころか、房子は、
「何もなくて良かったわね」と言ってほしかった、と不満そうに言うのだ。卓雄とふたりで顔を見合わせてしまった。
房子はどうして、これほど医者にかかりたかったのだろうか。重い病気や怪我で、心配してほしかったのだろうか。自分に注目してほしかったのだろうか。
ちょっとしたことで死にそうに大騒ぎするものだから、次に騒いでも、またか、と思ってしまうのに。
恭子は、自分の体も同じくらい心配してくれればいいのに、と思ってしまう。
そうは言っても、房子の体力はどんどん落ちていっていた。階段を上るのも、限界を越していた。房子がトレーニングのためにがんばると言っても、かわいそうで見ていられなくなった。房子はすでに96歳になっている。
それまでにも、ずっと気にはし続けていた。けれど妙案がなかった。一階に、くつろげる部屋は、たった一間しかないのだ。そこに房子のベッドを置いたら、何もできなくなる。
ずっと以前に、留学生のひとりが、外から上がる案を考えてくれたこともあった。階段に滑車をつける、という案もあった。けれど、どれも無理があった。
そこで、とうとう意を決して、房子の寝室を一階に移すことを決めた。それと共に、居間を二階に移さなければならない。房子が楽になるのとひきかえに、卓雄はかなり不便になる。けれど、卓雄は快く了解した。
そうして、部屋の大移動をした。
二階の房子の部屋から、ベッドや机、タンスを持ってくると、居間にはもう、寝転がるスペースもない。大画面テレビは二階に設置し直し、一階には房子の小さなテレビを持ってきた。そうやって一階の居間は、すっかり房子の勉強部屋兼寝室に変ったのだ。二階の一部屋には、房子の衣類や本、アルバム、雑貨など、夥しい荷物がそのまま置いてある。一階の居間にそれ以上持っていくことは無理だった。
それからは、夕飯が終わると、卓雄は二階に行ってくつろぐようになった。そうするしかなかった。
一方、房子はずいぶん楽になっていた。食事が終わると、隣りの部屋にすっと移動できる。今まで通り、机で絵手紙を描いたり、テレビを観たりして、寝たい時にはベッドに横になった。おまけに、ほとんど寝るまで恭子が近くにいる。卓雄の不自由さとひきかえに、房子は快適さと安心を手に入れていた。
恭子も一安心だった。これで、房子は亡くなるまで、恭子の家で安心して暮らせるのだ、と思った。
しかし、その後も房子の衰えはどんどん進んでいった。恭子の力では風呂にも入れられないので、氷のように冷たい房子の足を、湯を入れたバケツを持ってきて温めるようになった。
湯の中で温まった房子の足をとって、タオルで拭く。それでも房子の口から、ありがとう、とは出てこなかった。
登場人物紹介
恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。
卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。
房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。
幸男:房子の長男。恭子の兄。若い頃から問題行動が多かったが、房子に溺愛され、生涯援助され続ける。仕事も長続きせず、結局房子の塾の講師におさまる。
悠一:房子の実弟。房子とかなり歳が離れている。
やすよ:幸男の嫁。人妻だったため、結婚には一波乱あった。房子は気に入らず、ずっと衝突し続ける。
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