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『偽る人』(揺れる) (第87話)

とうとう・・・(1)

 九十七歳の誕生日を過ぎて、三月の終わり、デイサービスの施設から電話があった。しばらく休んでいるので、登録を抹消されてしまうという。新たに登録し直すのはまた面倒なようだった。施設の人も、房子の体を考えて、迷っていた。
房子に訊いてみると、明確な返事がない。行きたいようでもあり、自信がなさそうでもあった。
房子はずっと風呂に入っていない。恭子が温めたタオルで体を拭いてあげているだけだった。施設なら、椅子に座ったまま湯に入る機械浴の設備もある。それを期待して、デイサービスに行くことに決めた。
 玄関まではなんとか連れて行かなければならない、ということだったので、恭子は前日に予行演習をしてみた。自分も直前に足の甲の骨を折って、ギブスをしたまま台所をキャスター付きの椅子で往復していた。房子をベッドから起こして、そのキャスター付きの椅子に座らせて、倒れないように支えながら玄関まで移動する。危なっかしいけれど、なんとかできた。玄関からは、施設の車椅子で連れていってくれることになっていた。
けれど、後になってみると、そのデイサービスへの参加も、房子の体を一層弱めてしまったのではないかと、恭子は後悔するのだ。
 
当日、施設の車に送られて、房子は息も絶え絶えに帰ってきた。施設では何も食べられず、休んでいただけだったという。お風呂も到底無理だった。しばらくぶりに房子に会った仲間の老人は、房子の衰えた姿を目にして泣き出してしまったという。
 無理だったのだ。かわいそうなことをした、と後悔した。
一層弱った房子は、もうベッドから起き上がることもできなくなっていた。

 それからの日々、房子はベッドの上だけで過ごした。いつものように、何をしゃべるわけでもない。じっと天井を見つめたまま動かなかった。
 時々台所から覗きにきてみた。あんまり動かないので、死んでいるのか、と心配した。
「何を考えているの?」
恭子が訊くと、
「何だろうねぇ・・」
と、空を見つめたまま房子は言った。房子の表情には、もう、なんの欲望も見えない。すべて諦めきった人に見えた。
何も考えていないなんて、あるのだろうか。考えているのに、言わないのだろうか。
こんな時になっても、房子は自分の心の中をさらけださない。

 オムツを替える時にも、房子は何もしゃべらなかった。
 寝たきりになってから、以前のパンツ型のオムツから、普通のタイプに替えている。ほとんど食べなくなってから、オムツを汚す回数も少なかった。
 ベッドもそれまで使っていたものに替えて、介護用をレンタルしていた。その立派なベッドは、恭子達がずっと居間として使ってきた六畳の和室を四分の一近く占領していた。
 べッドには、両サイドにやはりレンタルの転落防止用の柵が取り付けてある。高さは柵にかけてある大きなリモコンで調節できた。上体を起こしたり、下半身を上げたりもできた。
夜、恭子は和室と台所の間の戸を閉めると、房子に声をかけて、リモコンのボタンを押してベッドを高くした。房子は黙ってされるがままになっていた。
 枕元に置いているティッシュの箱や、目薬やぬいぐるみが入った小さな籐の入れ物がベッドとともに持ち上がると、柵から落ちそうになる。房子は横目でそれを少し気にするそぶりをした。
 手前の柵のロックを外して前に倒すと、恭子は房子のパジャマのズボンに手をかけた。
 骨盤の骨だけしかないように見える房子の下半身は意外に重く、ズボンを下ろすために持ち上げようと思っても、手首に負担がかかり過ぎて無理だった。そこで、房子の体を半回転させて、向きを変えては徐々に下ろすことにしていた。
それでも、かなりの力が要った。腰の下に手を入れて、ぐっと持ち上げるように転がす。思わず「ヨッコラショッ!」とうめくように声が出た。
寒がりの房子は、パジャマの下にズボン下も履いている。恭子の声は、向こうに回転させたり、こちらに回転させたりするたびに、何度も出てしまう。房子に大変さをアピールしているようで嫌だったが、うっと力を入れるたびに声がでてしまう。
 オムツ交換の一連の作業の中で、肝心のオムツに至るまでのこの作業が、恭子は一番苦痛だった。房子に長く生きていてほしいとは思うものの、次第に老いていく自分の手首が、この重みにずっと耐えられるだろうかと不安になった。

 少ししか出なくなった便は、房子の体のよれた皺の間やひだの下に入り込む。お尻ふきの厚いペーパーを湯で濡らして拭いている間も、房子はまばたきも少なく、ただ天井を見ていた。
 房子は何を考えているのだろう、と思った。
恭子がすべての作業を終えて、パジャマを元通り履かせ終わっても、房子は黙っていた。
天井から恭子の顔に視線を移して、じっと恭子の目を見ている。なんて感情のない、冷たい目をしているのだろう、と恭子は思った。
「ありがとう」でも「お疲れ様」でもない。
まるで、オムツを替える恭子が、あたかも房子を貶めていると責めているようにも見えた。
 どうして黙っているの。どうしてそんなに冷たい目で私を見るの・・・。
「黙ってないで、なにか言って」
恭子がたまりかねて言うと、房子はやっと、冷たい目をしたまま、乾いた声でありがとう、と言った。 

 一週間ほどそんな状態が続いた。
 その夜は、翌日恭子も房子も予定があった。恭子は夕方ある集まりに出ることになっていた。房子の介護を機に発行する小さな冊子のための会だった。それは恭子にとって、とても大事な会だった。
 房子も卒業生のひとりが会いにきてくれることになっていた。
 卒業生のTさんには、事前に、房子が相当弱っていることは伝えてあった。何も話せないかもしれない。長い時間は無理だろうと。
 Tさんは、恭子より若い社会人だった。家には数回来てくれている。彼女も何かと気を使ってくれていたけれど、恭子もTさんの訪問時には、料理をがんばったり、できるだけのおもてなしをしていた。
 房子はよく、Tさんに会いたいと言って、幼い子のように、泣き真似までしてみせた。
そんな房子を見て、恭子は、Tさんとは卒業以来の付き合いだとばかり思っていた。ところが、亡くなって手紙などを整理してみて、Tさんとの親しい付き合いは、ここ数年のことだと分かった。
 それで分かったのだ。房子にとって、Tさんは、久美の替わりだった。房子から少し離れて行った久美に気付いて、房子は自分が心を寄せる相手を求めたのだ。その時期が、見事に合致していた。

 昼にTさんが来てくれることになっているその日の早朝だった。二階に寝ている恭子は、猫の鳴き声のような声を聴いた。その声は、はじめは家の外から聞こえてきているように思えた。いつまでもくりかえされるその声は、しんとした暗闇の中で、恭子の名前のようにも聞こえる。
けれど、階下に寝ている、体の弱っている房子が、まさか二階にまで聞こえる声を出せるとは思えなかった。だいいち、房子のベッドには、二階で響く介護用のブザーをつけてある。
 無視して眠ろうとしていると、追い打ちをかけるように、戸襖をがんがん叩き続ける音が聞こえた。房子だ。ベッドの横の戸襖を叩いているのだ。
 恭子は起き上がって、階段を駆け下りた。

 房子はベッドでもだえていた。苦しそうに顔を歪め、何かを訴えようとしているけれど、言葉にならない。水、と言っているようなので置いてある水飲み器を口に含ませたけれど、飲むわけではない。さかんにベッドの足元を指で指すのでベッドを起こしてみたけれど、房子はそれでも苦しい顔で前方を指さす。
「立ち上がるなんて無理よ。」
房子が何をしたいのか分からなかった。背中をさすったりしてみた。時計は四時を過ぎたところだった。
 翌日は、来客がある。その用意をしなければならない。夕方には出かけなければならない。もう少し寝なければ。恭子は焦っていた。
 それに、房子の死にそうに苦しそうな表情を、何度も何度も見てきた。目や指がいたくても、胸が苦しくても、房子はいつもこれ以上ないほど辛い表情を見せてきた。
 医者には、苦しい時にはこれをと、睡眠薬の座薬を渡されていた。恭子はそれを取り出すと、房子のオムツをとって挿入した。
 すると、房子はすうっと穏やかな顔になった。呼吸も落ち着いたように見える。恭子はほっとして、ベッドを直した。それから電気を薄くして、戸を閉めた。それが最後だとは夢にも思わず。

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登場人物紹介

恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。

卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。

房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。

幸男:房子の長男。恭子の兄。若い頃から問題行動が多かったが、房子に溺愛され、生涯援助され続ける。仕事も長続きせず、結局房子の塾の講師におさまる。

悠一:房子の実弟。房子とかなり歳が離れている。

やすよ:幸男の嫁。人妻だったため、結婚には一波乱あった。房子は気に入らず、ずっと衝突し続ける。

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