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『偽る人』(揺れる) (第76話)

施設での日々

 施設には毎週のように通った。たいてい卓雄の車で行く。そうすると、片道一時間かかるから、休日が半日つぶれてしまう。卓雄が不満を言うわけではなかったけれど、申し訳ないと、いつも思っていた。

 けれど、ある日、施設から帰る車を運転しながら卓雄が言った。

「おかあさんもさぁ、もっとうれしそうな顔をしてくれるとか、ありがとう、と言うとかしたらいいんだけど・・・」

 普段そんなことを言わない卓雄の言葉に、恭子はびっくりした。けれど、それは当然の言葉だった。来るたびに見る房子の態度に、恭子自身いつもがっかりしていたし、張り合いがなかった。卓雄でさえ、そう感じていたのだ、と思った。

 恭子達の施設の訪問は、ほとんど房子の食料調達のためだったと言っても良かった。房子は恭子達のことには何も関心がない。顔を見ても、にこりともしなかった。

 施設でも、頼んだ買い物をしてきてくれる日があるけれど、房子は携帯電話で、恭子に次の訪問の時に買ってきてほしい物を言ってきた。施設に行ってから、一緒に買い物に行くこともあった。

 買い物のリストには、牛乳やパン、チーズ、お菓子など、いろいろあったけれど、焼き鳥やお寿司などがよく入っているので、びっくりする。それらは仲良くなった碁の相手のおじいさんなどにあげるものだった。施設での食事があるのに、食べられるのだろうか、暖房の効いた部屋で、お寿司をどうやって保管するのだろう、と不思議だった。

 それにしても、他人に物で取り入ろうとする房子はどこに行っても健在なのだと呆れてしまう。

 一緒に買い物に行くと、房子は嬉々としてスーパーのカートを押して歩き、驚くほどたくさんの食べ物をかごに詰め込んだ。チョコレート、おせんべ、パン、ヨーグルト、チーズ、ハム、サンドイッチ、焼き鳥・・・。勿論どれもみんな、おじいさんの分も入っている。一回の買い物が7,8千円になることは、よくあった。

 そんなに大量に食料を買い込むものだから、房子の小さな冷蔵庫では入りきらなくなって、恭子は頼まれて、ネットで中型の冷蔵庫を注文した。要らなくなった冷蔵庫は、恭子がきれいに掃除して、結局おじいさんにあげることになった。

碁の相手としては、房子では役不足で、年中「そこに《石を》置いたら駄目だと言っているのに、何回言ったら分かるんですか」と怒られていたらしいけれど、おじいさんは、房子にとって、施設で一番大事な人になったようだった。

 小さい冷蔵庫に入りきらなくなったもうひとつの理由に、房子が大量の卵を買うことがあった。

 施設の朝食がまずい、と不満を言っていた房子は、仲良くなったケアマネさん(後に施設長になった)にねだって、自室でパンを食べる許可を得ていた。房子の、他人に取り入る才能には感心してしまう。

 その朝食に、簡単なゆで卵を作りたくて、房子は恭子にゆで卵器の購入を頼んできたのだ。

 ゆで卵器を得た房子は、毎日のようにゆで卵を作って、仲間の人や職員の人達にプレゼントした。なにしろ水を入れて電気をオンにするだけで、いっぺんに八個のゆで卵ができるのだから、簡単だった。そして、それがあちこちで喜ばれたようだった。

 房子は施設の買い物の日に、卵を20個注文することもあった。それは多分、房子がそれまであちこちに送っていた贈答品の替わりだったのだろう。現金を持っていない房子は、そんな形で自分の人気を得たかったのかもしれない。

 房子は当初、恭子が持って行ってはいけないと何度も注意した通帳一冊とカードを持って行っていた。施設入居とともに、恭子がお金の管理をしていたから、自分の自由になるお金が欲しかったのだろう。ひとりで自由に引き出すこともできないというのに。

 あるいは、幸男が来た時に渡そうとでも思っていたのだろうか。房子はほとんど話さないけれど、幸男はたまに訪問していたようだった。

 房子は施設の食事がまずいと言って、レストランにも行きたがった。お寿司や天ぷら、鰻など、施設では食べられないものを食べたいようだった。

 そうしてレストランに行くと、房子はやっぱりよく食べた。食べきれないのに、欲張って注文するのは、以前と同じだった。

 その結果残したおかずを、恭子達に食べて、と言う。恭子達だってお腹がいっぱいだから、大して食べられない。だいいち、残したものを勧められても、気分はあまり良くなかった。

 持て余すのが分かっているのだから、房子が注文する時に、多すぎる、と言いたかったけれど、ケチっているようで、やっぱり言えなかった。

 このレストランの支払いの時になると、恭子はいつも困った。自分達が払うべきか、房子に払ってもらうべきか。

 房子の毎月の年金から施設の経費などを引いたら、それほど余裕はない。恭子達だって、余裕はない。

 レジで一応支払いを終えて店から出ても、房子はいつも、「ごちそうさま」とも、「ありがとう」とも言ってくれない。それは、自分のお金を使っていると思うからだろうか。それならそれで、房子のお金を使うけれど、それでもなんだかしっくりしない。

 仮に房子のお金を使うにしても、休日を使って、房子の希望通りに動いている恭子達に、当たり前の顔をしていることが、納得できなかった。

 恭子は房子が施設に入ってお金の管理をするようになってから、ずっと房子のお金の出納帳をつけて、十円単位のお金の出し入れまで記録している。もらったレシートも全部貼り付けていた。それは、いつの日にか、幸男に求められた時に、証拠として見せるための物だった。

 たまに、よっぽど気に入った時だろうか、房子が、レジでの支払いを、

「通帳から出しておいてね」

と言うことがあった。そう言ってもらえれば、すっきりした。

「ごちそうさまでした」

と、ふたりで礼を言った。

 卓雄が不満を言うわけではなかったけれど、毎週のように休日をつぶすことが申し訳ないので、たまに、恭子が電車とバスを使って、ひとりで訪問することがあった。その方が、房子も気楽なのではないかと思った。けれど、車がないのはやっぱり不便だった。

 房子は施設に入ってから、部屋の前の廊下を、一日何往復かすることを自分に課していたようだった。それでも、家にいた時より、どんどん体力はなくなっていく。ちょっと歩いても、以前より一層疲れるようだった。

 ふたりでタクシーに乗って最寄駅に行き、そこから電車に乗って、デパートに行って買い物をしたり、レストランに行って食事をする。デパートの中では車椅子に乗せるけれど、移動のために歩く所が結構あった。房子はすぐに息を切らせ、苦しそうに顔を歪めて立ち止まった。

 それでも、房子はデパートで、絵手紙の絵の具やはがきを売っている所では、目を輝かせた。レストランではよく食べたし、カフェで頼んだケーキセットも喜んでいた。

 そういう房子を見ていると、恭子は満足だった。房子の手を取って、片手にバッグや、買ってきたたくさんの文房具や食料を持って、くたびれ果てて帰っても、充実感があった。

 ところが、房子は施設についても、うれしそうな顔ひとつしない。部屋の冷蔵庫に恭子が買ってきた食料を入れていくのを、いつものように、ベッドに座って黙ってながめているだけだった。房子が喜んでいたのは、買い物の時とレストランにいる時だけだ。「ありがとう」なんていう言葉は聞かれない。近況の話をするわけでもなかった。

 卓雄がふと不満をもらしたように、恭子達が訪問しても、ちっとも張り合いがないのだ。

 施設からバス停までの暗い道を歩きながら、恭子は失望感でいっぱいだった。

 房子の心の中が分からなかった。房子に精いっぱい尽くしているつもりだった。何が不満なのだろう。房子のお金を使っているから、当たり前、と思うのだろうか。それとも、今になって、施設に無理やり入れたと、恨んでいるのだろうか。

 やっと来たバスに乗って、暗くなった窓の外を、ぼおっとながめながら、恭子はやりきれない思いでいっぱいだった。

 それから少しして、久しぶりに家に連れてきた時も、やっぱり同じだった。

 房子が施設のご飯がおいしくない、また外でおいしい料理を食べたい、というので、卓雄に頼んで家に連れてきて、何度も行っていたレストランに行ってみた。すると、房子は以前と同じように、よく食べた。コース料理で、デザートまで完食した。体は衰えても、房子の胃袋は健在だった。

 けれど、食事に行く前に久しぶりに寄った家の中では、房子はまったく無表情だった。

足りない衣類を点検して持って行こうと思っていたのに、まるで関心がない。餅菓子を食べ、お茶を飲みながら、テレビに映る相撲を、ぼおっと眺めているだけだった。

 これには恭子もがっかりした。いつのまにか、房子の喜怒哀楽の感覚が、弱って鈍くなってしまったのではないかと、寂しくなった。

 その日、夕食後に、房子を施設に車でまた送っていった。すると、出迎えた職員の前で、房子は見違えるほどやさしい顔になった。

「山上さんのことを、みなさん尊敬しているんですよ」

それまであちこちで聞いてきた同じセリフを、五十代くらいに見える男性のスタッフが、柔和な笑顔で言った。

 房子が入居してから、まだいくらも経っていない。房子の何が立派だと言うのだろう、と恭子はまた寒々しい気持ちになる。

 施設に房子の知り合いなど誰もいない。いつものように、房子自身がまた、控えめを装いながら、自分の教養のある所や立派さをアピールしたのに違いなかった。

 どこに行っても、房子はこういうふうにしてしか生きていけないのだろう、と思った。

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登場人物紹介

恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。

卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。

房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。

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