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『偽る人』(揺れる) (第79話)

施設での日々 3

 次の週に施設を訪問した時に、房子に電池パックを交換した携帯電話を渡した。房子にしたら、電話がない一週間は、相当不自由で不安だったはずだ。家から離れても、電話さえあれば、房子は得意の舌で、誰とでも親しくつながっていた。
 着物のことなど、房子に訊きたいことはたくさんあったけれど、訊いても忘れたふりをするので、恭子は諦めていた。久美のことといい、胸にわだかまりが残ったままだった。

 それでも、施設の部屋に着くと、恭子はしなければならないことがたくさんあった。
 房子は相変わらず施設でも片づけをしない。大きなワゴンの中に、食べ物や紙くず、そして使用済みのパットまで、ごちゃごちゃに入れていた。
職員が掃除に来てはくれるけれど、ただでさえ忙しいから、細かい片づけなんかはしない。冷蔵庫を覗くと、りんごが半分、真っ黒になっていたりする。老人が部屋で飲食をするのも、良し悪しだと思った。
冷蔵庫の中の腐った物を捨て、整理して、中を拭く。ワゴンの中や棚の上の物も、捨てたり、整理する。汚い所を拭いて、床も掃除した。合計二時間。疲れる作業だった。
房子がゆで卵を作るのもチェックしてみたけれど、思ったより扱いが楽で、うまくできている。ただ、器の中に熱い湯が残るのが心配だった。

レストランにも、その後もよく連れて行った。房子はやっぱり「ありがとう」も「ごちそうさま」も言わない。
けれどある時、
「いつまで続くか分からないけど、私のお金で出しておいてね」
と房子が言った。
「『いつまで続くか分からない』って?」
訊き返すと、お金がもつかどうかだと言う。
 大丈夫よ、増えもしないけれど、減ってもいない。通帳を見せようか?と訊くと、いつもいい、と言った。

 房子がお寿司を食べたいと言うので、何回か行っている寿司屋に連れて行った時のことだった。
 前々から房子は食べ物が喉につまることはよくあった。それがどんどんひどくなってきていた。
 いつも一人前は食べられないので、房子に小さいランチセットを頼んで、卓雄が自分の大きなセットについているウニとイクラを皿に乗せて渡した。小さいセットを頼む時に、卓雄が、「僕のをあげますから」と言っていたものだ。既にサラダと茶わん蒸しを食べていた房子は、真っ先にウニをつまんだ。
 すると、お寿司を口に入れてからいくらもたたないうちに、房子はそれを喉に詰まらせていた。何度も詰まらせることはあったけれど、レストランでひどくなることは、今までにはなかった。けれど、その日はひどかった。
 房子はグエグエと嫌な音を立て続け、そのうちティッシュを取って、口の中の物を出した。何枚も何枚も取って、濡れたティッシュをテーブルの上に積んで行く。
 お客はもうほとんどいなくなっていた。けれど店の人に気を使う。恭子はバッグの中から簡易おしぼりを入れていた袋を出して、汚物を入れていった。
 残った寿司をパックに入れてもらって、外に出たけれど、房子はまだすっきりしない様子だった。そして、店のすぐ前で、少しずつだったけれど、二,三カ所に吐いた。
 恭子は驚いて、バッグからおしぼりを出して、道路の汚物を拭き取っていった。吐しゃ物は、粘液がまじって、簡単には拭き取れない。そこへ、近くの駐車場に向かっていた卓雄も気づいて飛んできた。卓雄もポケットからティッシュを出して、一緒に汚物を拭き取る。卓雄の手にも、粘った汚物がついた。
 その傍らに立って、房子は、食べた物をすっかり吐き出したのだろう、すっきりした顔をしていた。それなのに、卓雄に謝るでも、お礼を言うでもない。こういうところが房子の心の貧しさだ。弱っている年寄りの、介護をするのは当たり前とでも思っているのかもしれなかった。
 食べることが大好きな房子が食べられないのを見ると、かわいそうになる。けれど、房子のそういう態度を見ていると、房子に喜んでもらいたい、というやさしい気持ちが消えて行った。
 その後、房子はいつものように、スーパーでカートを押して大量のお菓子や果物を買い、レストランでケーキセットをペロリと食べた。

 施設に帰って、買った物を冷蔵庫などに片づけてから家に帰ると、恭子達は疲れ切っていた。朝から出かけていたのでできなかった洗濯の残りを済ませた後、恭子はしばらく横になって動けなかった。卓雄も横になって眠っていた。
 房子が恭子達のこんな一日に思いを馳せることは決してないだろう、と恭子は思った。

 そういう房子の、恭子達への薄い気持ちを、他でも感じることがあった。それは、房子の夫、つまり恭子の父親幸高の墓参りのことからだった。
 幸高のお墓は、施設に割合近い所にある。施設に入ってから、恭子達が房子をそのお墓に連れて行ったことがあった。
 ところがある日、房子がふと言った言葉に驚いた。房子は、幸男が施設に来た時にお墓に連れて行ってくれた話をして、
「割合ここから近いのね」
と言った。まるで、施設から初めて行ったような口ぶりだった。
「おかあさん、一緒に行ったじゃないですか」
卓雄が呆れたように言った。
 幸男もごくたまに施設を訪れているようだった。房子にとって、恭子達がしてあげたことは、何も記憶に残らない。数少ない幸男の孝行だけが、鮮明に残るようだった。

 そう言えば、ずっと後になってから幸男が、房子が言ったという言葉を恭子に投げつけたことがあった。房子は、施設に入って、せいせいした、と言ったという。
 聞いた時には、大人げない幸男の、ただの嫌がらせの言葉くらいに思った。けれど、よく考えてみれば、房子なら、幸男にこのくらいの言葉を言うこともあるだろう、と思った。
 どんなに一生懸命やっても、房子には、恭子に対してこんな思いしかないのだ。

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登場人物紹介

恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。

卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。

房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。

幸男:房子の長男。恭子の兄。若い頃から問題行動が多かったが、房子に溺愛され、生涯援助され続ける。仕事も長続きせず、結局房子の塾の講師におさまる。

悠一:房子の実弟。房子とかなり歳が離れている。

やすよ:幸男の嫁。人妻だったため、結婚には一波乱あった。房子は気に入らず、ずっと衝突し続ける。

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