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「言うこと」と「言わないこと」

言うこと

前々回の記事で書いたように、私の留学生活は、滞りなく進んでいた。

あの出来事が起こるまでは。
その日は初春の夕方で天気も良く、窓を開けてパソコンで音楽をかけながら、私は読書をしていた。すると部屋のドアがコンコンとなった。誰とも約束はしていない。誰だ?と思って覗き穴から見ると、一人の中東系と思しき男性が立っていた。オートロックの寮に入れているということは、この寮に住んでいる人かその友達なので、ひとまずドアを開けてみる。

「何か用ですか?」と言う私の問いかけに対し、彼の答えはこうだった。自分は下の階の住人である。音がうるさいので、少し静かにしてくれないか?私は「ああ、ごめんなさい!すぐに小さくしますね。」と言ってドアを閉め、音楽の音量を下げ、開けていた窓を閉めた。

数日後、大学から帰宅して部屋にいると、またコンコンとドアが鳴る。再びドアを開けると、また彼が立っていて、音がうるさいと言う。しかしながら私はその時音楽をかけてもいなくて、何のことを言われているのかわからなかった。そのまま「何のことを言われているのかわからないのですけど。私は今さっき帰ってきたばかりだし。」というと、「でもうるさいんだ」と言われる。埒があかない。

それでも私が引かないので、彼は帰って行った。そしてここからが、悪夢の始まりだった。その後も彼は何度も来た。私には何のことやらさっぱりわからない。どうせ押し問答になるだけなので、そのうち私は居留守を使うようになった。

そしてある日突然、部屋に一人でいるとものすごい金属音が鳴り響いた。
「ガンガンガン!!」
何事?と目を丸くして、部屋を見渡して音の出所を確認する。どうやら窓際から音がする。しばらくして、何が起こっているのか私はようやく理解した。

ドイツの家は基本的にセントラルヒーティングである。夏はそれほど暑くないので、学生寮にはエアコンなんて贅沢な代物はついていない。しかし冬は寒いので、セントラルヒーティングの暖房が各部屋に備え付けられている。セントラルヒーティングというのは、その名の通り建物の中の一箇所で熱源を発生させ、それを全館に行き渡らせるシステム。と言うことはつまり、各部屋にある暖房は隣の部屋と繋がっている。どうやら音がするのはそこらしい。つまり、別の部屋で、誰かが暖房を叩いていて、その音が私の部屋に反響していたのである。どの部屋からか・・・は考えなくても分かった。

音の大きさにぐったりするとともに、この音が他の部屋にも響いてることを考えると居た堪れず、次第に私は自分の部屋に帰ることが億劫になった。

言わないこと=ないこと?

ドイツの大学では語学学習をするときにTandem Parterという制度がよく使われる。Tandemとは直訳では自転車の二人乗りのことなのだが、語学学習で使われる場合は、互いの母語を学び合いたい二人が定期的に会って語学学習に役立てることを意味する。動機は語学学習だけど、結局は人と人の相性もあるので(話が弾まない相手とTandemしてもあまり意味がない)、複数のTandem Partnerを持つことも多い。

私は当時3人Tandemがいて、周りからは羨ましがられていた。そのうち一番気が合ったのが日本学専攻の男の子だった。日本学専攻のドイツ人学生といえば、大半がアニメか漫画オタクで、それらに詳しくない私はあまり話が合わない。一方彼はといえばビジュアル系バンドが好きで日本学を始めた人で、これまた別にビジュアル系が好きではない私とは趣味は違ったのだが、そんなことを揶揄い合えるような関係だった。(家に遊びにいったらルナシーのポスターが貼ってあって流石に笑った。)

彼とは毎週カフェで会って話をすることが多く、その日も二人で話していた。「最近何かあった?」と言われ、私は初めて今自分が抱えている問題を話した。下の住人に音がうるさいと言われていること。その「うるさい音」に何の心当たりもないこと。それを伝えても全く引き下がってくれず、最終的にセントラルヒーティングを使って嫌がらせを受けていること。

いつも優しい彼のことだから、慰めてくれるだろうと思っていた私に対して彼が言ったことは・・・「自分には心当たりがないってちゃんと言い続けなきゃ。逃げちゃダメだよ。」だった。その瞬間、思わず鼻の奥が熱くなって、私はトイレに駆け込んだ。人前で泣くのが昔から嫌いなのである。そうして一人になって、初めに思ったことは「マジか・・・」だった。

何を言ってもいい。自分の希望をそのまま伝えていい。ということは、裏を返すと、「言わなければ何もない」ということである。自分の希望を伝えなければ、何の希望もないと思われる。誰かの苦情に対して反論しないということも、反論がないということは自分が正しくないことを自ら認めているようなものなのである。

バスの中で感動したお婆さんと若者のやり取りが、頭の中でリフレインする。あの時はポジティブに思えた「言うこと」の文化が、逆の意味で私を苦しめている、ということなのか。だけれども、目の前で実際に怒っている男性と、ただ水掛け論を繰り返して何になるのだろうか。ぐるぐると思考が回る中、なんとか涙を引っ込めて席に戻り、その日はそれで切り上げて家に帰った。今では全く安心できない空間になっている家に。

言うことと言い方

その後も私はなるべく家にいる時間を短くして、図書館で勉強したり、人と会う予定をたくさん入れて、問題を誤魔化して過ごした。それでもたまに暖房を叩かれることもあったが、あまり家にいないのでそれほど多くその音を聞くこともなくなっていった。

人とたくさん会っているうちに、予想もしなかったことに彼氏ができた。特に留学中に彼氏を作ろうと思っていたわけではないのだが、なんとなく波長が合い、気づいたら一緒にいるように。

ある日、彼が私の寮の近くの教室で授業があり、その後部屋に来ることになった。二人で部屋で話しているその時。
「ガンガンガン!!」
あの音が鳴り響いた。当然、初めてその音を聞く彼はびっくりする。「何事?」と聞かれ、これまでの顛末を話す。下の住人が私に怒っていること。私ではないと言ったけれど聞いてくれないこと。水掛け論にしかならないので放置してきたこと。相手は男性だし怖いし、どうしたら良いかわからないこと。

黙って私の話を聞いていた彼からの返答は「そうだったんだ。じゃ、僕その人に会ってくるね。」だった。「は?今の話聞いてた?相手すごい怒ってるんだよ??」と言っても、「うん、まず話してくるね。」と言ってさっと部屋を出ていった。

何が起こっているんだろう・・・興味はあるものの、すっかり下の住人に恐怖感を抱いているので見に行くこともできない。そうこうするうちに私の電話が鳴った。彼だ。「もしもし?今下の階にいるんだけど、部屋の中歩いてくれない?」そう言われて、いつも通り歩く。その後は「靴履いてみて」「ベッドの上でゴロゴロしてみて」「椅子に座ってみて」などの指示があり、その通りに私が動く。部屋をひとしきり歩き回り、日常の動作を色々した後で、彼は「オッケー、じゃ、帰るね。」と言って電話を切った。

部屋に帰ってきた彼は言った。「椅子を引くときに少し音がする。だから椅子の下に敷くマット買いな。」
それだけ・・・?である。私は放心状態だった。あれだけ怒ってたのに、そもそも会話できたの?と聞くと、「上の階の子の彼氏だよ。今から音の検査するから部屋に入れて〜って言ったら入れてくれたし、終わりに『もしまた何かあったら連絡して!』って電話番号渡してきたから、君は直接やりとりしなくていいよ〜」とのこと。ついでに試験勉強でストレスがすごいことも話してくれたらしい。すっかり新たに友人を作ったノリである。

唖然。

この数ヶ月ずっっと悩んでいて、どうしようもなかったことが、たった10分でものの見事に解決されてしまった。そうしてこの解決方法もまた、「言うこと」でしかないのである。心当たりはない、と言うこと。その上で、でももしかしたら自分のせいかもしれないから、検査しようと申し出ること。そして互いに納得いくまで検査して、原因を見つけて、終了。

なんだ、これで良かったのか、と思った。やはりバスの中のお婆さんと一緒だ。なんでも言っていい。心当たりがなければ、心当たりがないと言わなければならない。一方で、それを別に攻撃的に言う必要もないのである。ただ淡々と、事実として、知らないという。それでも相手が納得しなければ、一緒に解決策を探そうと言う。物事は、恐ろしくシンプルだったのである。

私は相手が怒っていることに怯み、だからこそ自分も攻撃的に返答していた。その瞬間はスッキリするけれども、それは何の解決にもならない。最後は、互いにきちんと伝え合わなければ何も解決しないのだ。この出来事は私にまた強い印象を残し、以降、例えば日本でも騒音トラブルには一切悩まされなくなった。心当たりがなければ、ただ心当たりがないとないと言えばいい。必要があれば、検査すればいい。それだけだと思うようになったから。

余談ながら、この時の彼氏とはその後遠距離恋愛になって恋人としてはうまくいかなくなった。が、その後もずっと友人関係であり続けている。外面は良いけれど、実は毒舌の彼が、下の階から戻ってきて最後に言ったのは「まぁでもあの程度の音を気にするくらいなら集合住宅向いてないよな〜」と言うセリフであった。問題解決の仕方を見せてくれて、そして強心臓ぶりを見せつけてくれた彼のことは、今でもとても尊敬している。

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