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信仰について語るときに私たちの語ること

最近仲良くなったモロッコ人の友人がいる。
私も彼もそれぞれのボスについて会食に参加したことで知り合い、色々と話すうちになんだかとても気が合うことがわかり、たまに一緒にご飯に行くようになった。

初めて一緒にご飯に行った日は「ラマダン開始の日」に重なった。私は恥ずかしながら、ラマダン中には日が出ている間に水も飲めないことを知らなかった。そんな私に彼はラマダン中の伝統菓子をプレゼントしてくれ、その日はモロッコ料理を楽しんだ。ちなみに私はモロッコ料理が大好物である。

新しい知識が手に入ると、人は新たなアンテナを手に入れる。
いつも通り何の気なしにInstagramを眺めていたら、フォローしている在仏日本人DJの女の子が「初めてのラマダンに挑戦してみる」と投稿していた。彼女は初めてなので「まずは一週間やってみる」そうだ。(本来のラマダンはひと月。)

そこから一週間の彼女の投稿はとても面白かった。何時に起きて何を食べ、一日どのような生活をして、夜何時に何を食べたか。日が出ている間に水も飲めないのは、やはり想像以上にしんどそうだった。夜ご飯を食べようとしても容易に食べられないらしい。デスクワークの最中ずっとコーヒーを飲んでいる私にはとても耐えられそうにない。

なぜラマダンをやろうと思ったか、という質問に対して彼女はこのように答えていた。
「ラマダンの目的は貧しい人々の気持ちを知り、我が身を振り返ることだと聞いて、とても良い目的だと思ったから。」

次に友人と会ったのは、偶然にも「ラマダン終了の翌日」だった。
私たちは日が出ているうちからご飯を食べ始め、互いのひと月の無事を祝った。私はInstagramで見た話を彼に話し、やはりラマダンは大変そうだね、と言った。彼曰く「慣れだよ」とのことで、今ではそれほど汗をかかない運動なら普通にできる、とのことだった。

そして私はラマダンの「目的」の話をした。
「貧しい人の気持ちを知り、それに寄り添うことが目的なんでしょ?」
「そうやって説明されることもあるし、それも目的の「一部」だけど全部ではないよ。」
「全部ってなに?」
「僕は、自分の"ego"、つまりは"inner self"を理解し、コントロールすることだって理解している。」

彼は更に続けた。
「人間には欲がある。食欲ももちろんその一部。それを抑制することで、自分の中にある欲と向き合うことができる。その欲をコントロールすることで「より良い人間」になれる。ラマダンはそのためにあるし、究極的には信仰そのものがそのために必要なんだと思ってる。」
「その"inner self"はあくまでコントロールされるものなの?捨てる、もしくは忘れる、ということではなくて?」
「面白い質問だね。捨てる、という表現はしないよ。あくまで「ある」ことは前提として、でもそれを飼い慣らす必要があるということだよ。」

どうやら「滅私」とは違うらしい。
それでも彼の語る「ラマダンの目的」、ひいては「宗教の目的」は、全くもって普遍的な倫理の話だった。


どの国に生まれようと、どの宗教を信仰しようと、皆がinner selfを理解し、コントロールできればそれで世界はうまくいくに違いない。

理想的な世界とはなんだろうか。
この記事を読んだときに、真っ先に浮かんだのは先の友人との会話だった。
彼と私は生まれた国も信仰も家庭環境も何もかも違うけど、互いに敬意を持って接することができる。どこでもそれが当たり前であって欲しいけど、残念ながらそうではない。

何が足りなくて、何が必要なのか。しばらく考えた結果3つほど浮かんだ。

①自由
「世界の人に聞いてみた」さんは怖いと言っていたけれど、私の中ではやはりこれが最も大事。扶養される立場で「誰のおかげでこの生活ができると思ってるんだ」と吐き捨てられた時に感じた感情は、今でも忘れられない。私はこの人に隷属する立場なのだと思い知らされ、そしてそんな状態からどうにかして抜け出したかった。

自分の人生を自由に決め、誰と会うのか、どんな生活をするのかも自由に決められること。これがなければ幸せを感じることはない。友情も愛情も、「自由」であればこそ価値があるものだと思っている。

そして、この「自由」は私の中では「平等」と同義である。人が人であることにおいて等しく価値があるのであれば、それはすでに自由な世界だ。平等が実現されていないから、「稼ぐひと>稼がないひと」という価値観のもと、「誰のおかげで〜」的昭和のセリフが生まれるのだと思う。

自由がない平等はありえないし、平等がない自由もありえない。その意味では、「自由・平等・博愛」のうち前者二つは、私の中ではほぼイコールのものである。

②寛容
そうなると次は博愛・・・と来そうなところだが、実は私は「博愛」という言葉があまり好きではない。理由は、自分にその精神がないから。精神がないというより、キャパシティがないと言った方が正確かもしれない。

自称「愛の重い女」としては、愛を注ぐのには相当のエネルギーが必要である。それがわかっているからこそ、愛を注ぐ対象は自分の周囲に限定したい。もっと広い範囲に愛を注げられれば素晴らしい人間になれるのだろうとは思うものの、悲しいかな、今の私にはその力はない。

博愛には及ばないけれども、同じ時代を生きていく人間として互いを尊重することはできるはず。それを叶えるのが私にとっては寛容である。互いに線引きをした上で、相手を尊重することだと思っている。

③規則
自由、寛容ときて、最後に残るものは何だろう、と思った時に自分の中から出てきたのは意外な言葉だった。

自分の自由=人間としての価値が担保されて、寛容な社会で周囲ともうまくいけばそれが最高である。でも残念ながら、ひとの善意だけに頼るのではうまくいかないことがある。どうやっても分かり合えない、そしてそれを放置し合うこともできない場合に、私が重視したいのは「規則」だった。それも、「成文化された」規則であることが望ましい。

「言わなくてもわかるでしょう」
「普通こうでしょう。わかるよね?」

こういった言葉が、昔から大嫌いだった。なぜなら、わからないから。
日本文化の中では「空気が読めない」と言われるのだが、なぜ「他人が考えていること」を「自分の考え」として受け入れなくてはならないのか、ずっとわからなかった。

書かれていないルールを強要されるのが、一番嫌いだ。そしてそれがトラブルの元だとも思っている。想像力は確かに大事だけど、想像だけで全てが片付くほど他人は自分の思い通りには動かない。規則は言葉にされていて欲しいし、して欲しいし、したい。そして、書かれていないことは、自由であって欲しい。


二人で鰻を食べながら、彼の話は更に続いた。
「別に宗教に限った話だとも思ってないんだよね。たとえば「道と術」の違いがあるじゃない。人間性をより修練させていくのが「柔道」の目的で、「柔術」はその手段だよね。初めてそれを聞いた時、宗教とラマダンの話と似てるなと思ったよ。」
「今の話が全く普遍的な倫理の話だっていうのは完全に同意。私は特定の宗教を信じてはいないけど、君の言っていることはわかるし、より良い自分になりたいと思っているよ。正確に言えば、自分が好きな人間でありたいって感じかな。」
「宗教を信じていない、神は存在しないっていう人もいるけど、そんな人も必ず何かを信仰してると思う。例えば資本主義を信じていて、自由市場がその手段、とかさ。」
「それも100%アグリー。何も信じずに生きていけるほど人は強くないと思う。私の場合、一神教を信じるのは抵抗感があるんだけど、日本の八百万的な、アニミズム的なものはどこかで信じていると思う。」

育った環境も、信じているものも全く違っても、心が通い合う人間がいるという事実が生きる喜びを生む。新しい友情に乾杯。

ちなみに彼は全くお酒を飲まない。
そして私はハルキストではない。


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