インプットとアウトプット
日常生活であまり負の感情を感じる方ではない。
それは大半の人間関係で「諦めている」からこそ。
大切な人との関係はもちろん諦めないでいたいけれど、職場ではこれで良いような気がしている。怒ることで何かが改善するとも思えない。
一方で、時折自分でも驚くくらい「苛立ち」が顕になることがあった。
最近では、ある勉強会(という名の独演会)で、あまりに感想ベースの適当な話が繰り広げられている際に、自分の中で怒りの炎が燃えているのを感じた。
明らかに私よりシニアな相手に、堪えきれず間違いを指摘すると、彼が怒り出したのでその後私は沈黙に徹した。心の炎を燃やし続けながら。
似たような感情をどこかで感じたことがあるな、と思って思い出したのが、数年前に研究発表を聞いていた時のことだった。後輩の発表だったのだけれど、あまりの適当さに腹が立って、かなり強く批判した記憶がある。
それと直接関係があるかはわからないけれど、彼はややしばらくして研究を辞めた。もとより、彼にそれほど情熱はなかったのだと思う。
どちらも、私の専門分野に関する話だった。
シャドウワークという考え方がある。
自分が不快に感じること、怒りを感じているポイントは何か。
なぜそれに怒っているのか。それを紐解くと、究極的には「自分が自分に許していないこと」が明らかになる、という考え方だ。(自分が自分に許していないことを、他人がやっているから、怒りを感じると言うメカニズム。心理学でいうところの「投影」である。)
例えば、「仕事は辛いもの/我慢をしてお金をもらうもの」と思って働いている人は、楽しそうに仕事をし、我慢をしない人を見るとイライラする。それは自分には許されていないことだから。
この論理でいくと、私は私に「適当にアウトプットする」ことを許していないことになる。
そして、そのことに私は大いに心当たりがあった。
15年の研究人生の中で、抱えている問題がまさにここにある。
「アウトプットが少ない問題」だ。
書けば書くほど、自分が何もわかっていないことがわかって嫌になる。
どこかで割り切らなくちゃいけないことはわかっているけれど、どうにも踏ん切りがつかない。締め切りに追われてなんとか出したもの以外は、どうにも塩漬けの日々が続いている。
だからこそ、「適当にアウトプット」しているように見える人がいると、腹がたつ。「その程度の知識でよくも偉そうに語れるな」と思ってしまう。そして、わからないから、わかりたくて、ひたすらインプットを続ける、というのがここまでの私の職業人生であるように思う。バランスが悪い。
インプットの仕方にもどうやらタイプがあるらしい。
ということに気づいたのは小学生の頃だった。
国語だけは、何もしなくてもできる小学生だった。
教科書はもらったその日に一通り全部読み、小説の一部しか掲載されていなかったら、学期中にそれを全部読んだ。電車でもなんでも、文字があれば読まずにはいられない、というタイプだった。
テストの際には、教科書が浮かぶ。
あのページのどこにこの文字があったな、とわかる。
「教科書をもう一度頭の中で読む」ことで思い出すのが常だった。
つまりは映像記憶なのだけど、その「映像」が文字にしか効かない。
人の顔を覚えるのは子供の頃から最悪に苦手だし、初対面の人の名前も、文字で見ないとうまく覚えられない。
インプットに関しては、どうにも「文字」の世界に偏った人間なのである。
果たして、アウトプットに関してはどうなのだろうか。
まだまだ自分でももがいていて、全然答えが見えないので、「自分のタイプ」すらよくわからない。だけど、こんなに内容のない文章を出すことは、以前であれば「自分に許可を出せない」行為だった。
noteを通じて、少しでもアウトプットへの重圧を減らせればと思う。
「毎週土曜か日曜に出す」という自分との約束は早々に破れ、「土曜か日曜か月曜に出す」ことにはなっているけれども。
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