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期待値コントロール

「彼女すごくネガティブだったよね、これはうまくいかないね・・・」
「違う違う、彼女はネガティブなんじゃなくて、誤解されたくないんだよ。ドイツ語でなんて言えばいいんだろう、Erwartungswertskontrolle?」
「何その変な単語、聞いたことないよ」
「ええとつまり、相手があまり過度に期待しないように、予め期待のレベルを下げておくことだよ」
「ああ、Erwartungsmanagementね」

一緒に仕事をしたドイツ人との会話の中で、ふと出てきた単語。
ドイツ語では単語と単語をくっつけて新しい単語を作ることが容易なので、適当に日本語から直訳してみたのだが(Erwartungswertが期待値、kontrolleがコントロールという意味)、どうやらそうは言わないらしい。

Erwartungsmanagementだなんて、つまりはドイツ語と英語を混ぜるだなんて、ドイツ語の先生たちが聞いたら怒りそうな言葉だ。いつからかドイツ人は簡単にSorryと言うようになり、ドイツ語と英語の境目はますます侵食されている。恐らくこの単語も使われるようになったのは比較的最近なのだろう。

とはいえドイツ人もこの感覚自体は共有していると言っていた。あまりに期待値が高いと、あとあとがっかりしてしまう。だから初めから、あまり期待しないようにデメリットやできないことを伝えておく。適正な期待値を互いに持っておくことは、仕事においてとても大事な感覚だと思う。


いつからか、「期待しない」ことが増えた。
とりわけ人間関係に。

そうすれば、がっかりしない。相手の嫌なところを見て、「そんな人じゃないと思っていたのに」と思わなくなる。期待していなければ、「あ、そういう人なのね。」で済ませられる。

登山仲間と夜通し話した際にも、同じようなことを言う人が多かった。基本的には一人で山に登る人々は、私同様、孤独に強い人間が多い(一方で、山の上では最後はお互いの命を預け合うところもあるので、みなとても友好的で、その関係性が私には心地いい。)。

相手に期待しない。ただ目の前にいる相手と対峙し、それを受け入れるか受け入れないかは、自分が決めればいい。そう思うようになってから、対人関係の悩みは基本的になくなった。例えば現在の職場で、仕事仲間にイライラしたり幻滅することはない。客観的に「困った」ことはそれでも起こるけれども、特定の個人に何らかの感情を抱くことはもうない。

おかげでとても生きやすくなった。
その一方で、これは「処世術」だな、という意識もずっとあった。

時折、職場で「優しい」とか、「いつでも朗らか」とか、「誰とでも仲良し」と言われることがある。その度に心の中で「へー」と思う。そう見えているのか、と。

実際には私は優しくもないし、朗らかでもない。ただ期待していないのだ。だから別に彼らが失敗しても、なんとも思わない。ああ、そういうことが起こるのね、と思うだけ。次からは気をつけてね、と伝えて修正しておしまい。

上司の悪口も言わない。なぜなら、期待していないから。上司が人間的に素晴らしい人であってほしいとも思っていない。もちろん、論理的な話が全く通じなければ流石に困るだろうが、今のところ筋道立てて説明すればそれは理解してもらえるし、その上で最終判断をするのは彼らの仕事なので、私の意に沿わない結果になっても特段何の感情もない。

結果、現在の職場での私の評価は基本的に悪くない。ただ一人だけ、「どなたとも上手に距離を置いていますよね」と言ってきたアシスタントさんがいて、それはよく見ているなぁと感心した。


誰に対してもこの心持ちでいれば、私の気持ちはずっと凪だろう。
きっと恋人ともうまくいく。だけれども私は前回の関係性に終わりを告げた。それはすなわち、私が恋人への「期待」を捨てられないからである。

「こうでありたい」関係性がある。
落ち込んでいたら「そばにいてほしい」。
二人で一緒に「見たい」ものがあり、「話したい」ことがある。
その期待がなければ、それはもはや必要ない関係である。

そんなことを、15年来の友人と話していた。
「『期待しない』ことが人間関係で自分が傷つかない一番の方法だってわかってる。だけど『期待しない』ならそんなパートナーシップはいらないよね。一方で『期待する』と、その『期待』が裏切られる可能性があって、結局自分が傷つくのもわかる。どうしたらいいんだろう。」

そう言った私に、友人が言った。
「期待はするよ、当たり前じゃん。自分が選んだ特別な相手だよ。でももしその通りに相手が反応してくれなかったら、自分の『期待値』が間違ってたなって思って、期待値コントロールし直せばいいんだよ。」

天才か、と思った。
期待に応えてくれない相手を責めるのではなく、期待値設定を間違っていた自分を修正すればいい。「どうしてあなたはこうじゃないの」ではなくて、自分の期待値を修正する。その上で、「期待する」こともやめない。

相手に期待することは、相手を諦めないことである。
相手に期待することは、その関係性を投げないことである。
でもそれを、相手をコントロールすることと同義にしてはいけない。

自分の心を守ることはもちろん大事だ。でもそれを優先しすぎて、「二人」を諦めてしまったらもったいない。軽やかに、健全に期待して、うまくいかなかったら修正して、築き上げていく関係性がいいなと思う。


冒頭の彼と話す中で、日本語の会話ではやたらと「数学用語」が使われることに気付いた。期待値、偏差値、必要条件、十分条件・・・別に理系の人間でなくても、日本語の会話では頻繁に耳にする言葉たち。

そんなことを言うと、また「日本人は数学が得意」のステレオタイプを強化してしまいそうだ。同時にこういう表現を無自覚に使うことで、忘れられている感覚もあるように思う。

「顔面偏差値」という言葉の意味を説明している時に(余談ながら、私はこの言葉が大っ嫌いだ。品がなくて。)、彼に言われたのはこんなこと。
「でもそれってすごく変だよね?偏差値という表現が使えるのは、『平均』があって、『標準偏差』がわかる場合なわけだけど、美の基準ってそんなに画一的じゃないよね?それぞれ好みがあるじゃん。」

言い得て妙である。そして、そんなことに気づかなかった自分に驚く。これだからコミュニケーションは楽しい。期待通りじゃないから、楽しいんだ。そう思う今日この頃である。

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