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わたしたちは、なぜ、つくるのか(後編)【創作の価値を考える(3)】

こんにちは、さらばです。
前々回から「わたしたちは、なぜ、つくるのか」ということについて考えています。

前編では「ひとが好んでやることには必ずメリットがある」という考えを元に、なにを「一番のメリット」と考えるかが、そのひとの価値観に繋がるというお話しをしました。

中編ではその考えから、物語を書くことのメリットを列挙し、「内的なメリット(楽しい、思考力が身に付く等)」と「外的なメリット(お金になる、承認欲求が満たされる等)」に分けられると書きました。
で、一般的に後者のほうが上と思われがちなのはなぜだろう? ということについて持論を展開したのですが……今回はその続きです。

外的なメリットのほうが上なのか?

わたしは、「内的なメリット」と「外的なメリット」のどちらが上か、という考えは持ってません。
単に、性質の違いだと思っています。

前編で触れた食事の例で言うと。
「美味しいという感情を得られる」という内的なメリットと、「誰かと食事の時間を共にすると距離が縮まる」という外的なメリットのどちらが上か? と議論するとしたら、どう思います?

また、友だちの例で言うと。
「一緒に過ごすと楽しい」という内的なメリットと、「相手が困ったとき、役に立てたら嬉しい」という外的なメリットのどちらが上か? と議論するとしたら、どうですか?(まあ友だちの場合は相手がいることが前提なので、前提からして不確実性は高めですけど)

経済的な側面で語るなら、わたしは「お金になるものが18年以上書けなかった創作者」です(なるものを書こうとしたかどうかに関係なく)。
そのフィールドでは「何者でもない」最低ランクの創作者でしょう。それは全く否定できませんし、しません。

ただ、一般的に創作というものについて「経済的な側面で語ること」が暗黙の前提になり過ぎてないかな? というのが、長年感じてきたことです。
これは少し考えれば「そりゃそうだ」と思えることなので、不思議なことではないのですが。

「経済的な創作市場」という物差し

だって、漫画も小説もアニメも映画もドラマも芝居も……現代においてあらゆる物語が生み出され、広まる原動力は「商売」を前提としています。商売になればなるほど広く知れ渡ることになり、人々の話題に上がりやすくなります。
消費者の全てが「たくさん売れる=優れた物語」と思うほど極端ではないと思います。が、それに近い価値観を持つ方も少なくはないでしょうし、ある側面から見れば正しい見方です。

で、ある以上、経済的に成功した創作者や作品が目立つのは必然です。
またそれらに触れて創作を始めるひとたちが、彼らをモデルケースとして「創作=経済的な成功を目指すもの」と考えるのは当たり前だろうと思います。

逆に考えると、ほぼ内的なメリットばかりを優先して物語をつくる創作者というのは、この「経済的な創作市場」で目立たないどころか、存在が表に出ません。
そもそも最大の顧客が自分なら、究極的には自己完結できるので発信する必要がありませんし、他者の評価が要りません。
仮に求めたとして、評価されない可能性も高いでしょう。

そういう作品は「経済的な創作市場」の物差しで言うと、「つまらない」「レベル低い」ということになっても仕方ありません。が、そのことと「この創作者に創作する価値があるかどうか」ということには、実のところ因果関係がありません。
そのひとの創作の価値を決める上で、必ずしも他者がいなければならないとは思えないからです。

こういう考えを示すのは(誤解されやすそうという意味で)かなり難しいと感じます。
「経済的な創作市場」を否定する気は全くありませんし、そこで認められることは素晴らしいことだと思います。もちろんその市場の中にも「売れることを重視して描かれた物語」や「作者の熱を重視して描かれた物語」が混在しているのも重々承知しています。
わたし自身、その市場における(わりとヘビーな)消費者のひとりです。

「売れる」ということと「自分が描きたい」ということ。
そもそもどちらか一方に無条件で偏ること自体、創作者にとっては難しいでしょう。
そのバランスについては、わたし自身が特にここ数年悩んできたところです。

お金にならない創作に価値はあるか?

こんなことをつらつら書いている時点で、わたしはもちろん、

「お金にならない創作に価値はある」

と考えているクチなのですが、逆にお金になる創作を否定する考えを持っているわけでもありません。
どんな創作にも価値はあり得るし、それをまず創作者本人が忘れないようにしないといけない、と自分に対して思うのです。


別に、わたしの考えが特殊とは思いません。
例えばコミケに代表される同人誌の市場では、必ずしも商業的な成功を狙わない創作者も多いでしょうし、「小説家になろう」のような原則無料のサイトで作品を発表する方の中には、やはり商業的な成功を目指していない方もいらっしゃるのではと思います。
あとわたしが大学時代に師事していた作家の教授が仰っていたのですが、純文学の業界では作風を変えて売れ線に走ると、「あいつは大衆に迎合した」と仲間内で囁かれるとかなんとか(事実は存じ上げませんが)。

だからわたしは「お金になろうがならなかろうが、創作をすることそのものにも、喜びや価値がある」という、ある種当たり前のことを3回にもわたって書いているだけです。
ただ、敢えてここに"時間"の観点を加えて強調したいと思います。


というのは。
創作を初めて間もない方については、

「お金にならない創作に価値はある」

という言葉が当てはまりやすいんじゃないかと思うのです。周囲も肯定し、応援しやすいイメージがあります。
が、それが5年10年……わたしのように20年近く続けている人間が、

「お金にならない創作に価値はある」

と言ってると、受け取り方が変わりません?
もしかしたらわたしの被害妄想的なものがあるのかもしれませんが、1年目のひとの発言よりネガティブに受け止められる可能性が高いんじゃないか? と思ってます。
また、発言する本人も「なにか言い訳じみた引け目があるんじゃないか」と勘ぐられやしないか、懸念して言いたがらないんじゃないかと思うのです(わたしも私生活ではあんまりひとに言いません)。

「そんなこと書くってことは、さらばも引け目あるんじゃないの?」

って思いました?
まあ、うん、はい。ないと言ったら嘘になりましょうぞ(何語?)。

でも、どんなに引け目があろうと……誰かから情けなく、格好悪く見えたとしても、

「お金にならない創作にも価値はある」

と感じてることも嘘じゃないんです。何年経っても。
だからみっともなく見えてもやめる選択肢はありません。し、できれば引け目を持たずに胸を張りたい。

お金にならないのに書き続けることに、意味あるの? っていう他者や自身の考えなんかでやめてしまうには、本当に惜しいくらい多くのものが得られた、得られていると実感しています。
もしやめてしまったら、わたしは多分長く生きていられない。
本気でそう思います。

この価値は、決してビギナーだけのものではないです。
生涯積み重ねられるものだと確信しています。


て、そんなこと書きつつ結局わたし自身が一体なにを「一番のメリット」だと考えているのかとかは全然書いてませんけど。
そういう意味ではこの話はここまでが前段です。そのメリットの中身を書いてみたくなったというのもnoteを始めた大きな理由ですし、ひとつふたつではありませんから、おいおいということで(このテーマで語るために「創作の価値を考える」というサブタイトルを作りました)。

とにかくひとりでも多くの創作者が、長く長く、自分の創作に価値を見出してくれる世の中であればいいなと思ってます。
そうなれば、結果たぶんそこから生まれる作品たちは誰かのためになるんじゃないかと、願うように思うのです。


というわけで、お読みいただきありがとうございます。
さらばでした!

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