あなたに「テニプリっていいな」と言わせたい【テニスの王子様】
こんにちは。わたしです。
唐突ですが今回は『テニスの王子様』『新テニスの王子様』の話をします。
このnoteでは基本的にときメモGSシリーズについてのみ書いていく予定でしたが、諸事情あって気が変わりました。
ちゃんとGSの記事も今後書いていく予定で、プレイ日記や考察記事などいくつか構想中なので、楽しみにしてくださっている方が万が一いらっしゃれば、気長にお待ちいただけましたら幸いです。
この記事はテニプリ好きの皆様にはもちろんのこと、知ってるけどちゃんと読んだことないな~とか、変な技ばっかり出てくるアレでしょ?ウケる(笑)とか思っている人にこそ読んでいただきたいです。
※詳細なネタバレはありませんが、一部ストーリーやキャラクター名、台詞に触れる描写がありますのでご注意ください。
■背景・経緯(長すぎるだけの前置き)
さて、突然ですがわたしは典型的な平成の女オタクであり、元夢女です。
そしてわたしの人生がオタク方面に大きく舵を切ることになったきっかけは他でもなく、『テニスの王子様』でした。
確か最初は弟と一緒にアニメを見始めて、そこから原作の漫画にハマり、ファンブックを買って舐めるように読み込み、氷帝学園のキングこと跡部様に魅せられて雌猫もとい王国民となり、納税の傍ら平成のインターネットにてセコセコと二次創作に明け暮れる日々を送っていました。
(主に文章を書いていましたが、古傷が疼くのであまり深くは聞かないでください。お察しください)
『テニスの王子様』、通称「テニプリ」という作品に出会ったお陰で、コンテンツへの熱狂的なハマり方、熱量の発散の方法、オタク的なお作法、そしてオタクとして生きるということを理解し、実践し、腐や夢やコスプレといった二次創作という名の広い広い地下世界があることも知ることができました。
こう見えてシャイガールだったのでリアル系のイベントに赴いたことはほとんどありませんが、在宅のオタクとして微力ながらアトベミクスの養分となり、経済を回していた自負があります。
しかしながら時の流れというのは残酷なもので、だんだんと受験やら部活やら友人関係やらが忙しくなり、そして次々と現れるテニプリ以外の魅力的な作品たちに目移りもし、わたしはだんだんとテニプリのオタクではなくなっていきました。
作品やキャラクターたちへの愛がなくなることはありませんでしたが、リアルタイムで連載を追いかけたり、すべてのファンブックを買い占めたり、OVAを見漁ったり、血走った目でグッズを収集したりすることはなくなりました。
特に『新テニスの王子様』が始まってからの記憶はほとんど残っていません。
義務感のようなものに駆られて一応ちまちま追ってはいたものの、多忙を理由に途中で放り出してしまっていたからです。
そして十数年の月日が流れ、今。
きっかけはYouTubeのおすすめで流れてきたテニプリに関する動画をなんとなく再生してみたことでした。
懐かしいな~くらいの軽い気持ちで再生した、なんてことのないまとめ動画のようなもの。
その瞬間、わたしのなかに流れ込んできたのはあの頃の情熱と、大好きだったキャラクターたちの思い出と、テニプリのことを考えているだけで楽しくて幸せでたまらなかった青い日々。
そして、あんなに大好きでたまらなかったはずの作品なのに、よく思い出せない試合展開やキャラクターがいることと、まったく知らないキャラクターがいることの悔しさと悲しさ。
オタクのエネルギーは爆発に近い。
いつかの切原赤也のごとく、わたしの心の「湿気った導火線」に火がついてしまい、気づいたときにはもう遅かった。
ノスタルジーをエネルギーに変換し、まずは『新テニスの王子様』最新巻まで即購入し即読破。
わたしがテニプリから離れている間にも、キャラクターたちの人生の物語は続いていて、新たな困難や自分自身のなかにある壁にぶつかり、立ち向かい、己や友と向き合い、乗り越え、進化し、成長していたこと。
全部全部知らなかった。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
追いかけてあげられなくて、リアルタイムで応援してあげられなくてごめん。
今読んでもやっぱりテニプリは最高だし、わたしの原点であり、実家だ。
失われた記憶と情熱を取り戻すまでに、一週間もかかりませんでした。
まさに爆発的エネルギーの発散。このときのわたしは天衣無縫だったと思う。
そしてもうひとつ分かったことがあります。
わたしがテニプリを追いかけていた頃はまだ10代だったので、ストーリー面白い!キャラクターかっこいい!必殺技すごい!テニプリ大好き!という稚拙な言葉でしか愛を表現することができませんでした。
でも今は違う。
一度ジャンルを離れて外の世界を見たこと。他の漫画やアニメ、ゲームはもちろん各国の文学作品や映画、舞台芸術の数々に十数年の年月をかけて触れたことで、あらためて『テニスの王子様』ならびに『新テニスの王子様』という作品に向き合った今、当時とは比較にならないほど深く、より多くを感じ取ることができるし、少なくともあの頃よりは高い解像度で、愛や魅力を言語化することができるようになりました。
キャラクターたちが成長する裏で、わたし自身も十数年の間にさまざまなものと向き合い、進化し、成長していたということです。
今このタイミングでここに戻ってこられて本当に良かった。
テニプリがある人生がこんなにも多幸感に満ち溢れたものであるということを思い出せて良かった。心の底からそう思います。
こうしてテニスの女に電撃復帰したわけですが、先日会社の同僚と雑談していたときに、好きな漫画の話になりました。
その人は青春スポーツ漫画が好きだと言うので、さりげなくテニプリの話題を振ってみたわたし。
そしてすかさず言われたこと。
「読んだことないし、読む気もない。現実離れした可笑しな技ばっかりでしょ。あんなの読むなんて、時間の無駄」
時間の無駄。
この言葉がわたしの心にぐっさりと突き刺さりました。
基本的に、わたしは自分の好きな作品を人に勧めることも、逆に勧められることも好きです。
そして、熱心に勧めることはあれど、それを強要したいと思ったことは一度もありません。
誰にだって好みや優先順位というものがあるし、勧められたものに触れるも触れないも、人の勝手だからです。
ただし。
人が好きだと言っているものを知ろうともしないで「時間の無駄」などどこき下ろすのは、あまりにも非人道的、いや非オタク道的ではないでしょうか。
この一言でわたしは完全にキレてしまったので、だったらさらに「無駄な時間」を費やして、テニプリという作品がいかに優れていて、いかに人々を幸せにしてくれるもので、いかに大衆から愛されているかを語る記事を、何が何でも書き上げてやろうと思ったのです。
別に書き上げた記事をその人に届けようとは思っていません。
その人のことを嫌いになったわけでもありません。
でも、このままではどうにもわたしの腹の虫がおさまらないのです。
これはその同僚を非難するためのものではなく、わたしがわたし自身と向き合って、戦い、勝利し、成長するために書き上げなければいけない記事です。
絶体絶命のピンチで己の殻を破り、立ち上がって戦うことを決めた不二先輩のように。
心の中で叫ぶ。時間の無駄?へえ、そうかい。
「やってみなきゃ わからないよ!!」
■ネットミーム化の功罪
「時間の無駄」と切り捨てられた最大の要因は明白で、作中で描かれるあまりにも現実離れした必殺技や能力です。
これらはテニプリが「テニヌ」などと呼ばれる要因でもあり、数ある描写のなかでもセンセーショナルなコマはスクリーンショットが撮られ、もはやネットミームとしてSNSやYouTube、ブログ記事などあちこちに貼り付けられては一笑に付されています。
つまり、『テニスの王子様』『新テニスの王子様』に一切触れたことのない人々にも、ネットミーム化した数シーンが独り歩きをし、届いているということです。
有名なものを挙げるとするなら、菊丸英二の「ならダブルスでいくよ(分身)」、ダンクマール・シュナイダーの「デカ過ぎんだろ・・・」、徳川カズヤのブラックホール関連、でしょうか。
また、意外と知られていないものといえば10年程前に(当時の)Twitterで流行した「なるほど●●じゃねーの」という有名なミームの元ネタは、テニプリの跡部景吾様の台詞「なるほどSUNDAYじゃねーの」だったりします。
跡部様の発言は元々箸休めの日常回にて披露されたものなので今回は除外するとして、先に挙げた3つの有名なシーンについては、どれも手に汗握る大真面目な本編の試合最中に描かれたものであり、わたしのような往年のテニプリ愛好家(=訓練されたオタク)であっても、正直初見では声を出して笑ってしまったし、徳川カズヤの「あらかじめネット際にブラックホールを!?」にはさすがのわたしも頭を抱えました。
ブラックホールを生成できる理屈がそもそも分からないのに、置きブラックホールて。
さて、このように『テニスの王子様』や『新テニスの王子様』のトンデモ描写だけが切り取られ、ネットミームとして独り歩きするようになり、テニプリを知らない層を「やばい漫画だ」と呆れさせたり笑わせたり困惑させたりしているわけですが、わたしはこのネットミーム化現象がテニプリにもたらしたのは何もマイナス要因だけではないと考えています。
むしろ、同等かそれ以上のプラス要因をもたらしたのではないでしょうか。
漫画やアニメなどのコンテンツが人気を保ち、長く生き残るために最も必要なことは「新規を獲得しつづけること」であり、そのためにはまず潜在層に対する「タッチポイントを増やす」ことが大切だからです。
ネットミーム化したワンシーンを見て、わたしの同僚のように「ふざけた作品だな」とネガティブな印象をもつ人は少なくないと思いますが、そこから一歩進んで「これに至るまでに何があって、このあと一体どうなるんだろう。機会があったら読んでみるか」と思い至る人もそれなりにいるはずです。
事実、この「ネットミームとして散々流れてくる画像がきっかけでテニプリを知って、触れて、気が付いたらめちゃくちゃハマっていた」というルートを辿った人々をわたしはたくさん知っています。
ネットミーム化によって浴びる必要のない批判を浴びることや、あらぬ誤解をされることもあるかもしれません。今回わたしもネットミーム化のせいで「時間の無駄」と言われてしまったわけですし。
それでも、ネットミーム化によって獲得できた認知と新規ファンのことを考えれば、むしろお釣りがくるくらいなのではと思います。
トンデモ技や能力はテニプリという作品の足を引っ張るどころか、「客寄せパンダ」「広告塔」「エバンジェリスト」といった重要な役割を担い、それを立派に果たしてくれているということです。
世は令和。バズったもん勝ちってやつです。
そして、このネットミーム化によってリーチする潜在新規層は、大きく次の3つに分類できると思っています。
①流れてきたシーンを見て、気になって、いつか読んでみようかなと思っている人たち
②流れてきたシーンを見て、変な漫画だな、漫画は好きだけど、自分がテニプリを読むことはないなと思っている人たち
③流れてきたシーンを見て、変な漫画だな、少しでもリアリティーのないものは読む価値無し、と思っている人たち
①はわたしが何もしなくてもそのうち作品に触れてくれるでしょうし、③に関してはそもそもフィクションに向いていない。ウィンブルドンの試合中継でも見ていてください。
わたしが特にこの記事を届けたいのは②の人たちです。
同じようなことをときメモ語りの記事でも言いましたが、②にあたる人たちのなかに、ひとりでもわたしの発信に心を動かされて『テニスの王子様』を手に取ってくれた方がいたとしたら、こんなにオタク冥利に尽きることはありません。
そう、あなたです。さっきからずっと、わたしはあなたに向けて話しかけているのです。
対戦よろしくお願いします。
■演出は「手段」であって「本質」ではない
さて、ここまで語ってきたように、いくつものシーンがネットミームとして拡散されてしまうほど、テニプリの必殺技や能力の描写はひときわ尖っているし、わたしのような往年のファンさえもざわつかせるほどのインパクトがあります。
「こんなのありえない」「これはテニスじゃない。あまりにもリアリティーがない」そんな批判を見かけたことは一度や二度ではありません。
しかし、我らオタクに言わせれば、テニプリのキャラクターたちが繰り出す必殺技に現実味があろうがなかろうが、そんなことは大した問題ではないのです。
これは実際に作品を読んでみればすぐに分かることです。
この作品の魅力の核は、華やかで人間離れした必殺技の数々ではなく、テニスというスポーツを通して繋がった数多くのキャラクターひとりひとりが、それぞれの目標や夢に向かって努力し、時には挫折し、泣いて、もがいて、それでもまた立ち上がって、壁を打ち破って成長していく物語にあるのです。
トンデモ必殺技の数々は、その過程に花を添えてくれる一要素でしかありません。
時にはキャラクターの個性の表現や成長の賜物として、時には「絶対に勝てるわけない」と相手を絶望の淵に叩き落すためのシンボルとして。
漫画における演出のひとつ、つまりは手段でしかなく、その技が現実で再現可能かどうかを考えることなんて、まったくもって本質からズレている。
ミュージカルを観て「突然踊り出したり、歌いながら会話したりするのは変だし、現実じゃありえないよね(笑)」などとツッコミを入れるくらい野暮なことだと心得てほしい。
その演出が果たして有効に機能しているかどうか、蛇足ではないかと疑うのであれば、一度作品を見てから批評するのが筋というものではないでしょうか。
「とはいえ、ある程度のリアリティーがないと感情移入ができないかもしれない」、そんな風に考えてしまうのもある意味自然なことです。
だからといって「時間の無駄」などと言ってそっぽを向くのは、実際に作品を手に取ってみてからでも遅くはないはずです。
ちょっとばかり必殺技がトンデモだったくらいでは、『テニスの王子様』という作品の完成度は決して揺るがない。
むしろトンデモ技の数々が優秀な「演出」としてキャラクターに個性と深みを与え、ストーリーをさらに劇的にし、エクスタシーやカタルシス、爽快感を何倍にも引き上げてくれている。
その確固たる確信がわたしにはあるので、自信をもって言えます。
一回読んでこい。話はそれからだ。
■優れた群像劇としてのテニプリ
『テニスの王子様』といえば?と聞かれれば、大体の人が「奇抜で現実離れした必殺技」や「乙女たちを虜にするイケメンキャラクターたち」をまず連想する方が多いのではないかと思います。
しかし意外と話題に上がることがないのは、ひとつの物語としての完成度の高さです。
『テニスの王子様』の主人公は青春学園中等部1年生の越前リョーマくん。
元伝説のテニスプレイヤーである父親に幼少期から鍛え上げられた彼の実力はなかなかのもので、テニスの名門校である青学に入学して早々、なんやかんやあって1年生でありながらレギュラーの仲間入りを果たします。
それと同時に、ここまでは「俺が最強」的なマインドで生きてきたリョーマくんでしたが、青学の部長を務める手塚国光や、青学No.2で天才と呼ばれる不二周助など、今の自分には到底超えられない実力をもったプレイヤーがいること、自分が打倒するべきは父親だけではなく、中学テニス界にも強い人たちがたくさんいるということを知ります。
そこから都大会、関東大会、全国大会と、リョーマが所属する青春学園が団体戦でライバル校たちと次々に対戦し、勝ち上がり、全国ナンバーワンを目指すというのが『テニスの王子様』のざっくりとしたストーリーです。
ちなみに、通常少年ジャンプの主人公といえば天真爛漫で好奇心旺盛、素直でみんなに愛される、明るくてやんちゃな男の子!みたいなタイプが多いと思いますが、リョーマくんはそれとは徹底的に真逆のタイプとして描かれています。
クールで口数が少なく、生意気で、いつもスカしていてあまり笑わず、自信家で、テニスに関しては目の前の相手を何が何でも倒さないと気が済まない、みたいな男の子です。
対戦相手や先輩のことを平気で煽りますし、初期はキレると普通に「くたばれ」とか言ってました。
どちらかといえば少年漫画の敵キャラやライバルキャラに多いタイプですね。
(許斐先生によれば、最初は王道ジャンプ主人公タイプの遠山金太郎がメインになる予定だったそうです。それはそれで読んでみたい)
そんなリョーマくんが所属する青学テニス部が大会で全国優勝を目指す話、というとよくある王道スポーツ漫画では?という気がしてきますが、実はそうではないのです。
いや、そうっちゃそうなんですけど、それだけではないんです。
『テニスの王子様』はリョーマくんの快進撃と成長を描いたよくある主人公のサクセスストーリーではなく、青学を中心に据えつつも、氷帝学園や立海大付属中、不動峰中、四天宝寺中など、総勢50人以上はいるであろう多彩な個性とバックグラウンドをもつキャラクターたちそれぞれの思いや葛藤、そして成長を立体的かつ多角的に描いた群像劇なのです。
他校の選手たちは、単に青学を追い詰める壁として立ちふさがっては退場していくだけの存在ではありません。
彼らもまた青学と同じように、全国優勝を目指して日々汗を流し、厳しいレギュラー争いを勝ち抜き、彼らなりの動機と美学を胸に、本気で青学にぶつかってきますし、その後も彼らの成長物語は続いていきます。
ひとつひとつの試合を通して主人公のリョーマや青学レギュラーたちが成長したり覚醒したりするのと同様に、他校の選手たちも自らの弱点に気づいたり、冷めきっていた心に火がついたり、新たなライバルや目標を見つけたり、自分の殻を破って実力以上の力を発揮したりする姿がしっかりと丁寧に描かれています。
その深度と完成度はリョーマくん以外の他校の選手を主人公に据えても軒並み面白い漫画になるのではないかと思えるほどです。
(実際、作者の許斐先生は立海大の部長・幸村精市について聞かれたときに「もうひとつのテニプリ」と答えていました。ラスボスとしてリョーマの前に立ちふさがった神の子こと幸村精市が主人公の物語、読んでみたい)
「たくさんキャラが出てきて切磋琢磨する漫画なんて他にもたくさんあるよ」と言われそうですが、とりあえず濃いキャラクターをたくさん登場させて、それぞれにオタク好みな設定を盛れば優れた群像劇ができるかというと決してそうではなく、中途半端にやろうとするとチープで取るに足らない物語になってしまいます。
皆さんは漫画やアニメを追っていて「やたらいっぱいキャラ出てくるけど、全然名前が覚えられないな…」とか「脇役のサイドストーリーが多すぎて、本編全然進まなくて退屈だな…」とか思ったことはないですか?それです。
キャラクターがたくさん出てくるということは、大前提として読者が混乱しないよう高度な「描き分け」ができる高い画力が求められますし、ちょっとしたことで辻褄が合わなくなるので緻密なプロットづくりとタイムライン管理も必要です(オタクであればあるほど、そういうのすごく気になる)。
そして最も重要なのは、「脇役はいいから主人公出せ」と言われないために、キャラクター全員が個性的かつ魅力的でなければならないことです。
こうした要素がすべて揃って、初めて優れた群像劇として成立するのだとわたしは思っているし、テニプリがその最たる例だとも思っています。
そして、テニプリ世界の構造は「主人公側が“正”でライバル校側が”悪”あるいは”誤”」ではなく、「みんな違ってみんないい」が徹底されています。
第一シリーズの『テニスの王子様』では、全国大会決勝シングルス1の試合に出場したリョーマが、暗く苦しい壮絶な試合の土壇場で「テニスって楽しいじゃん」というひとつの答えを掴み、「天衣無縫の極み」に到達しました。
(未読の方は何を言っているのか全くわからないと思うのでざっくり説明すると、テニスを始めた頃の、勝っても負けてもミスしても、とにかくテニスができるだけで楽しくて仕方がないという、誰もがいつの間にか忘れてしまっている気持ちを思い出すことで最強になれるというチート級のバフみたいなものに目覚めたってことです)
「テニスって楽しいじゃん」、これこそが『テニスの王子様』という作品を通じて許斐先生が我々読者に伝えたかったことであり、この「天衣無縫の極み」に達することがテニプリ世界でしのぎを削るプレイヤーたちが目指すべきひとつのゴールであるということも示されました。
しかし、これはあくまで数あるゴールのうちのひとつでしかない。
その先を描いたのが現在も連載中の次作『新テニスの王子様』です。
リョーマに続き、何人かのプレイヤーが「天衣無縫の極み」に到達したものの、努力さえすれば全員がそこに辿り着けるわけではない。
なぜならば、「心の底から純粋にテニスを楽しむ」ことができるのは、100%自分だけのためにラケットを振り続けることができる者のみだからです。
そこにはテニスを始めた動機や続ける理由、先天的もしくは後天的に背負った運命や責任、過去のトラウマや苦しい経験など、今後の努力ではどうにもならない要因が大きく関わってきます。
とあるキャラクターは、リョーマを凌駕するほどの卓越した実力を持ちながらも、背負っているものがあまりに重すぎて「テニスは楽しいものだ」なんて到底思えず、天衣無縫に対して強いコンプレックスを抱いていました。
そして彼は彼にしかできない方法で、「天衣無縫の極み」ではない形で「天衣無縫の極み」を打ち破り、新たなゴールのひとつとして提示するという、彼なりの答えを叩き出しました。
主人公が辿った道だけが、主人公が成し遂げたことだけが正解ではないんだよということが、『新テニスの王子様』という続編を通して示されたのです。
テニプリがトンデモ技の激しいインフレを繰り返しながらドッカン大怪獣技バトルするだけが売りの漫画なのだとしたら、全員何か理由をつけて天衣無縫に覚醒して、さらにその上の領域みたいなものが出てきて…という展開で全然良かったはずです。
そうではないから、わたしはこの作品が好きで好きでたまらないのです。
このように、『テニスの王子様』では各学校が背負う思いやチームワーク、敵味方関係なく試合を通して成長していく姿、そして「天衣無縫の極み」というひとつの答えが描かれ、続編の『新テニスの王子様』では学校という縛りから解き放たれた数十名のキャラクターひとりひとりが今度は自分自身と向き合い、それぞれの目指すべきゴールとそこに至るための道筋を見つけていくプロセスが描かれています。
これを稀代の優れた群像劇と言わずして何と言うのか。
技の現実味がどうのこうの、というのがいかに次元の低いお話であるか、そろそろお分かりいただけたのではないでしょうか。
■テニプリとはSDGsであり、大乗仏教である
小見出しを見て「何言ってんだこいつ」って思いましたよね。分かります。
今からちゃんと説明するので落ち着いてください。
※この章では「腐」や「夢」といった主に一部の女性が好む二次創作関連の話が出てきます。苦手な方はご注意ください。
ご存じの通り、テニプリは連載開始から25年が経った今でも根強い人気があり、膨大な数のファンが国内外に存在しています。
そしてテニプリおよびテニプリファンを語るうえで避けては通れないのが、そのメディアミックスの上手さです。
人気の漫画作品を原作としてアニメ化し、映画になり、さらには2.5次元ミュージカルになり、ゲームが制作され・・・という流れはもはや近年の王道になりつつあります。
しかしながら、テニプリほど既存ファンの需要を的確に満たし、多様な間口から新規ファンを獲得し続け、メディアミックスにおいて大きな成功を収めている作品を、わたしは他に知りません。
わたし自身は「アニメ」というメディアからテニプリの門をくぐり最終的に「原作漫画好き」に落ち着いた一派ですが、「たまたま観た映画でテニプリを知った」「友達から借りたゲームで知った」「好きな俳優さんがテニミュに出ることになったから知った」といったように、テニプリはメディアミックスのクオリティが高いがゆえに、ありとあらゆるところに間口が設けられており、テニプリファンの数だけ愛し方があると言っても過言ではありません。
「そんなのどの作品でも一緒でしょ」と思われるかもしれません。
でもちょっと待ってください。
たとえば誰かが「実は私、テニプリ好きなんだよね」と発言した場合、わたしの脳内では次のような思考が駆け巡ります。
原作か?アニメか?腐か?夢か?それともミュか?
(これは主に会話相手が女性の場合です。念のため)
そして、その人がどういうテニプリの愛し方をしているかによって、その後の会話の展開が大きく異なってきます。
「ミュ」とかいうちょっと特殊なルートが存在するのはまぁ置いておいて、それ以外は他の作品でもありえるかもしれません。
わたしが伝えたいのは、たとえ相手の嗜好が通常であればアングラ方面であるはずの「腐」や「夢」だったとしても、テニプリならメディアミックスの豊富さと寛大さゆえ、公式ベースでの会話を展開することができるということです。
分かりやすい順に説明すると、「夢」つまりキャラクターを自分の恋愛対象として捉えて、あれやこれやを妄想するのが好きな人の場合。
友情・努力・勝利を軸に描かれる少年漫画作品では、公式から「夢」的な成分が供給されることは通常まずありえません。
だからこそ、夢女子たちはインターネットの隅っこで「夢小説」や「夢漫画」といったものを日々せっせと生み出したり摂取したりするわけです。
しかし、テニプリは大変寛大な作品であるため、なんと公式がこの夢女子たちの需要を満たしてくれているのです。
代表的なものでいえば恋愛シミュレーションゲームの発売。「ドキドキサバイバル(通称ドキサバ)」や「学園祭の王子様(通称学プリ)」といったタイトルがつけられたゲームで、これらは正真正銘の乙女ゲームです。一切テニスしません。
そしてさすがはテニプリというべきか、なんと攻略対象が40人以上います。
「私の好きなキャラ、マイナーで不人気だから攻略できない…」と涙を流す乙女が生まれにくくなっているのです。できるだけ多くの夢見る乙女を救ってやろうという公式さんの強い思いが感じられます。
少年漫画が原作で、本格的な乙女ゲームが複数発売され、しかもちゃんとヒットした作品なんて他にあるんでしょうか?少なくともわたしは聞いたことがありません。
そして「腐」について。男性キャラクター同士のラブロマンスに魅力を感じて、好きな組み合わせで好きなように妄想して楽しむのがこの界隈です。
さすがに公式で男性キャラクター同士の絡みにあからさまな恋愛要素を盛り込むのは無理があるので、直接的な表現がされたメディアミックスはさすがに存在しませんが、わたしが舌を巻いたのはソシャゲである通称「テニラビ」です。
わたし自身は腐女子ではありませんが、腐の友人たちからよく聞くのは、「推しカップルが存在する空間の壁や天井になりたい」という願望です。
好きなキャラの眼前に自分が存在したい、という夢女子の願望とは真逆で、自分の存在を一切排除し、ただただ推しカップルのやりとりを静かに眺めていたい、と願うのが彼女たちなのです。
そして「テニラビ」ではそれに近いことが叶います。
テニラビでは引いたカードに応じたストーリーを読み進めることができるのですが、そこで描かれるのは主にキャラクターたちの日常生活や何気ない会話であり、主人公ちゃん(自分)みたいなものは一切登場しません。
さすがに特定の二人を指定することはできないものの、学校や学年を超えたキャラクターたちの等身大の会話を神視点から眺めることができるメディアが公式から供給されるなんて、古のオタクである我々からすれば革命的なことです。
誤解のないように付け加えておくと、別に「テニラビは腐女子向けのソシャゲだ!」と言いたいわけではないです。
全く腐女子ではないけど、好きなキャラクターの日常の様子を見て楽しみたい、本編では見られない会話やキャラの一面が見たいという全テニプリファンに共通する願望を包括的に叶えてくれるゲームだと思っています。
(あとは、テニラビはジャンルでいえば音ゲーなので、キャラソンが好きでプレイを楽しんでいるという人も当然多いと思います)
あくまで壁になりたい、天井になりたいという腐女子の願望にフィットする要素を含むゲームだからすごいよね、ということが言いたかったのです。
ちなみに、テニラビではバレンタインやホワイトデー等のイベントでのみ、好きなキャラにチョコレートをあげたり、お返しをもらったり、それに伴ってキャラクターからメッセージや電話をもらえたりと、一部「夢」的な願望を満たしてくれるイベントもあります。
そのときだけは一時的に主人公ちゃん(自分)の存在が仄めかされます。もちろん、こうしたイベントを見るも見ないも自由です。
なんだかだいぶ女オタク寄りの話になってしまいましたが、テニプリ公式もボランティアではないので、女性ファンの比率が多いがゆえに、こうした需要を満たすメディアミックスが多くなるのはマーケティング戦略として自然なことだと思います。
さて、ここまでテニプリのメディアミックスの上手さについて長々語ってきましたが、何が言いたいのかをそろそろまとめます。
笑って泣いて熱くなれる優れた群像劇としてテニプリをまっすぐに愛する原作ファンのことは、許斐先生がクオリティーの高い漫画を供給しつづけることで満足させてくれるし、腐女子や夢女子などちょっと様子がおかしい愛し方をするファンからも目を背けず、公式から手を差し伸べて、公式のできる範囲で肯定してくれる。
テニミュはもはや2.5次元ミュージカルの金字塔とも呼べる地位を確立し、「原作は一切知らないけどテニミュは大好きで通ってる」という猛者も今や珍しくないほど。
そして忘れてはならないのがキャラソン。歌手でもアイドルでも何でもない、ただのテニス選手たちが歌う楽曲の総数は今や900曲を超え、毎年の「バレキス」や「サマバレ」は誰が歌うのかで界隈は大盛り上がり。「なんかいい曲だなと思って聴いてたら、テニプリのキャラソンだった」という声もちらほら聞くレベルで、かつて跡部景吾様の曲がオリコンウィークリー9位にランクインしたことも。
このように、漫画が好き、アニメが好き、キャラクターへの憧れという正面玄関からだけでなく、ミュージカルや音楽、恋愛要素やBL要素、声優さんへの愛(テニプリ声優さんたちが送るラジオ番組通称「ラジプリ」は20年以上続く長寿番組)など、どんな入り口から入っても、どんな愛し方でも、テニプリはすべてを肯定し、受け入れ、なんなら公式から供給までしてくれるのです。
「テニプリが好きだ」という気持ちをもった人を、誰一人取り残さず平等に幸せにする。
これこそまさにSDGsの考え方と同じです。
テニプリファンは歴の長い人が多いですし、わたしのように一度離れた人も、何かのタイミングで戻ってきやすいように思います。
それは単にテニプリの連載が長いこともそうですが、それ以上に公式が需要を理解し、的を射たメディアミックスを豊富に供給しつづけてくれているので、まさにサスティナブルなファン活動がしやすい環境が整っているからではないでしょうか。
そして「テニプリ」の物語が好きな人、キャラクターが好きな人、キャラクターの歌が好きな人、キャラクター同士の絡みや関係性が好きな人、2.5次元ミュージカルになったテニプリが好きな人、ゲーム内に登場するキャラたちが好きな人、・・・
愛し方は人それぞれで、どんな形でもいい。
たった一言「テニプリっていいな」とだけ唱えれば全員が救済の対象となり、衆生の日常に幸せが訪れる。
テニプリは大乗仏教のようなものであるとも言えるのではないかと、わたしは考えています。
これはあくまでわたしの肌感覚ですが、他のオタク界隈に比べて、テニプリのファンたちはみんな寛大で温かくて、それでいて愉快な人が多いです。
それは大きく分けて漫画・アニメとミュージカルという2大ジャンルが当たり前に共存していることで多様性に慣れている部分もあるでしょうし、何より信仰の対象である公式が、多様な愛し方を前のめりに肯定してくれているからだと思います。
■最後に
ここまで読んでくださってありがとうございました。
最初の章で、わたしは「テニプリという作品がいかに優れていて、いかに人々を幸せにしてくれるもので、いかに大衆から愛されているかを語る記事を何が何でも書き上げてやる」という宣言をしました。
これらが少しでもあなたに伝わったのであれば、この試合でわたしはわたし自身に勝つことができました。
これを書き上げた今となっては、同僚に言われた「時間の無駄」という言葉への反発心もすっかり薄れ、心は穏やかに凪いでいます。
これでやっと成仏できる気がします。
わたしはこれからも『テニスの王子様』ならびに『新テニスの王子様』という素晴らしい作品を、長く深く愛していくつもりです。
今後テニプリについての記事を書く予定はありませんが、気が向いたらまた書くかもしれません。書かないかもしれません。
ここはわたしの、わたしによる、わたしのためのチラシの裏みたいなものなので、どうか気まぐれをお許しください。
最後にテニプリの作者である許斐剛先生のシングル(作者のシングルとは)『テニプリっていいな』の歌詞を一部引用して、本記事の締めくくりといたします。
それでは皆様、ご唱和ください。
テニプリっていいな!
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