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何者かにならない小説|イビサとKYOKO

昔から若者は夢を追うものでしたが、最近は「夢を追う」という言い方ではなく「何者かになる」と表現している印象があります。

かつては才能があり環境にも恵まれた一部の人にのみチャンスがあるような時代でしたが、インターネットとSNSが普及したことで万人にチャンスが訪れるようになりました。それによりユーザーである一般人たちが「承認欲求」を強く求めるようになり、「何者かになりたい」という気持ちが高まっている模様です。

多くの人にチャンスが与えられた時代はまさに「民主化」が果たされたことを意味します。これは歴史を振り返ってもあまり起こり得ない革命的なことで、基本的にはポジティブな出来事だと思います。

しかし、そんな自由な世界において「何者かになろう」と自分を探し始めることの危うさを教えてくれる小説があります。

村上龍の『イビサ』です。

精神を病んでしまい、勤めていた会社を辞めることにしたマチコは、そんななか出会った一人の男に誘われてヨーロッパへ旅に出ることにします。行先はフランスのパリ、モンテカルロ、そしてモロッコ、バルセロナです。

彼女の内面の苦しみと生きることに向き合う姿勢が、ヨーロッパの異文化のもとで出会う人々と重なりながら過激な描写で描かれていきます。

マチコの旅を通して描かれているのが「自分とは何か」という問いであり、それをあとがきで村上龍がこのように書いています。

これは、破滅的なストーリーである。自分と向かい合う旅、それを実践した女性の話だ。自分と向かい合うのは危険なことだ。
~中略~
自分は何者か?などと問うてはいけない。自分の中に混乱そのものがあるから、ではなく、まったく何もないからだ。

『イビサ 』(講談社文庫) あとがきより抜粋

悲劇的な話ではありますが、この様に自分と向き合うことの意義を考えられる作品であるため、未読の方はぜひ読んでいただきたいです。

現実の世界では、何処かに辿り着けば答えがあるわけではありません。「何者かになりたい」と答えを求めるのではなく、他者との出会いをもとめて世界を広げていくことの方が大切だと考えさせられる一冊です。

『イビサ』は現実的で厳しさのある作品ですが、村上龍はこれとは対照的な小説も書いています。

それが『KYOKO』です。村上龍自身が監督を務め、高岡早紀さん主演で映画化もされました。

この作品は序章の主人公キョウコの語りによって幕をあけますが、どことなく閉鎖的な雰囲気を感じる彼女の幼少期に、ホセという外国人からダンスを教えてもらうという印象的な出会いから始まります。

13年後にキョウコはホセに「ありがとう」と言って一緒に踊るということだけを目的に、会社を休んでアメリカに旅立ちます。

しかし話はこれだけでは済まず、再会することができたホセは末期のエイズに罹っていました。彼の「故郷へ帰る」という願いを叶えるためにニューヨークからキューバへとキョウコが運転をして旅を進めることになります。

村上龍自身もあとがきで書いているように、『KYOKO』は一種の妖精譚でありシンプルに感動させてもらえる小説です。

『イビサ』で描かれたマチコの旅と比べて、KYOKOの旅は様々な出会いを通して様々な土地や文化や人々に出会うことで世界が広がっている様子が見えます。

「何者かになろう」と自分を探すのではなく、他者や世界と関わろうとする姿勢の方が、充実した人生を過ごせることがわかります。この2冊からはそんなことが学べます。

とはいえ僕は『イビサ』の破滅的なところが非常に好きです。どんな人生を歩むかは、その人の自由です。

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