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【428球目】三陽工業・創世期①

さて、本日から始まりました。三陽工業の歴史

間に違うことが挟まることもありますが、順番に出来る限り詳細についてまで書いていきます。まず1回目は、1980年から1991年の創世期についてです。どれくらいのボリュームになるかは書いている私も分かりません。気軽にお付き合い頂けると幸いです。


井上省

三陽工業という会社は、初代・井上省(たすく)の個人事業から始まりました。私の祖父になります。

大正12年8月12日生まれ、愛媛県の大三島に生まれた1人の人物が私のルーツであり、三陽工業のルーツになります。9人兄弟の4男として生まれた井上省は、当時の尋常小学校を出た後に、因島にある日立造船の工場に入社します。

因島は大三島から東に向かうと、2つ目の島です。大三島までが愛媛県。大三島の次の生口島からは広島県になります。その当時の日給は55銭。井上省が16才の頃です。大正12年は1923年ですから、1939年頃のお話です。まだ太平洋戦争前ですね。今から83年ほど前のお話です。

その日立造船の因島工場に鉄と鉄をくっつける仕事=溶接の仕事があり、井上省はこれに興味を持ちます。その溶接職場には隣りの村の知り合い(Aさん)が働いていました。溶接の仕事に将来性があると考えた井上省は、上司に職場異動のお願いをします。何回もお願いをしましたが、その願いが叶うことはありませんでした。その後、Aさんが日立造船を退職し、神戸で溶接の仕事をするという話を聞きます。

もし、溶接を習うことができるなら神戸に行きたい!

省はAさんにそう伝えます。それから3ヶ月ほどした頃、Aさんから神戸に出てこい!という知らせが入ります。すぐに退職届を出して神戸に向かいます。日立造船には1年8ヶ月の在籍でしたので、この頃18才です。神戸へ行くことを両親に伝えると、自分の事は自分で考えなさい、家にお金を送る必要もないが、財産は一切ないと思ってくれと、伝えられます。昔の時代ですから、家は長男が継ぐもの、4男ですから、自分の好きなことをやりなさい、そんな背景もあったのでしょう。

こんな経緯で18才の時に、神戸を目指して島を後にします。

もし、日立造船に行っていなければ溶接に興味を持っただろうか。
もし、溶接に興味を持たなければ、どうなっただろうか。
もし、溶接職場に異動したいという願いが叶っていれば、神戸へ行ったのだろうか。
もし、4男であったとしても、島に残って欲しいという両親の願望があったならば神戸へ向かっただろうか。
もし、隣の村のAさんが神戸にいかなかったらどうなっただろうか。
もし、隣の村のAさんが神戸ではない所に行っていたらどうなっただろうか。

様々な想像が膨らみます。そして、今ここでこうしていることの確立はとてつもなく低いんだと再認識すると共に、今のこの環境に感謝です。


そして神戸へ

神戸市長田区の鉄工所に溶接見習いとして入社します。日給80銭です。

ここでは隣の村のAさんと仕事をしていたのですが、Aさんは1年ほどで退職します。その後Aさんは大阪に向かいます。Aさんに付いていくという手段もありましたが、省はそのまま残ります。残りますが、その会社の状況が芳しくなく結果退職となり、当時大阪に住んでいた兄を頼って大阪に向かいます。

大阪で仕事を探しますが、なかなか見つかりません。溶接についてもまだまだ見習いの身ですので、雇ってくれるところがありませんでした。その時の苦労は忘れないと省は振り返っています。途方に暮れている時に、隣の村のAさんが、住み込みで働けると事があると紹介してくれて、そこへ行きます。大阪市此花区にある鉄工所に住み込みで日給50銭、給与は低かったがとても家庭的でよくしてくれたと本人は振り返っています。毎日の仕事が楽しかったと。

そんな省は21才になっていました。1923年生まれですから1944年です。太平洋戦争の真っ只中です。そんな省に招集通知が届きます。今日はここまでにします。

まだ、三陽工業に1ミリも触れていませんが、三陽工業を語る際に、この井上省は避けて通ることができませんので出来る限りの事を書いていきます。本人が亡くなる前に書いた手記をベースに書いていますが、今に繋がっていく運命の様なものを感じます。逆に、何かが違えば今とは異なる運命があったと思うと、人生の難しさや楽しさを感じることが出来ています。

少しずつ進めていきますので、お付き合い頂ければ幸いです。

本日もありがとうございました。

明日もよろしくお願いします。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました!