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あなたの小説を読ませてください#2『アオハル / 平中なごん』


#RTした人の小説を読みに行く  二作目になります。もはや遅れてるという域ではないほど遅いですが、ぼちぼちやります。

アオハル / 平中なごんhttps://estar.jp/novels/25717515/viewer?page=37


まず余談から始めようと思う。この作品の端緒としてあるイラストだが、どこか写真的な印象を受ける。こういう写真があっても不思議ではない。視覚、構図、光、様々な点が写真的に、私には見える。
個人的な話になるが(というか以下全文が個人的でしかありえない「感想」なるものであるのだが)、私は写真が好きだ。あらゆる表現の領域のなかで最も好きなものの一つであり、崇拝しているとさえ言って良い。
写真が良いのは、それが徹底的に心ないことである。柄谷行人はかつて、写真はその被写体が例え死体であれ飢えた子どもであれ全て風景写真である、と言い、中平卓馬は事物の視線の組織化が写真であると言った。
写真は沈黙に似ている。音もなく、匂いもなく、時間もない。凍りついた瞬間。
それは〈あなたには何もわからない〉と、見る者の視線と心を拒んで、深く沈黙している。


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かなり前になるが、写真で一言大喜利の形式で自由律俳句を書いたことがある。それは単に写真を出汁に自由律俳句を作りたいのではなかった。写真の心なさと、自由律俳句、殊に尾崎放哉の句に顕著な心なさを重ね合わせることで、二重に冷ややかな美が造形できないかと企んだのである。成功か失敗かはお読みくださった方にご判断いただきたい。
心なさとは言い換えれば解釈の拒絶である。それがただそれである、という零度の認識。写真と自由律俳句にはそれがある。
言語芸術とはとかく解釈を引き寄せがちであるのかもしれない。そこでは想像力を駆り立てることが賞賛され、それこそが他の表現、とりわけ視覚芸術への優越と言われたりもする。
しかし私にとっては、解釈を許さぬ地平にかろうじて辿り着いた言葉こそが美しい。春琴抄において、春琴の顔の傷は、その悲惨は、犯人がはっきりと提示されず、その謎が謎を呼ぶからではなく、それが示されないという不可能性の提示、それ以上先に進めぬという点において、美しい。谷崎は陰影を礼讃するとき、果たして本当にその奥深さを愛していたのだろうか。視線の挫折を、そこでは何も見えなくなることを、愛していたのではないか。
共感不可能性への志向。それは短い形式を欲望させるのかもしれない。
さて、ここで示された、写真的な絵に目を戻そう。私にはそれはやはり、解釈を呼ぶ、あくまでも絵に見える。写真的な要素を持ちながら、しかしどこまでも絵である。
まさしく小説も、ここでは絵の解釈のようなものとしてある。


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ところで、むろん感想も一般に解釈である。
私はどうにかしてそうではない文章のかたちを探し求めている。
つまり「考察」ではない鑑賞を。


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終結の、二つの台詞による、虚をつく認識の転回。
それは他でもなく絵というものの孕む想像力を誘発する力によって起動している。
絵は我々に、想像せよ、と言う。
写真にはない、筆の明るい自由さが、それがそれであるという写真的な判断停止ではなく、それはそうではなかったかもしれない、どのようにでもあったかもしれない、この線は、色は、どのようにもありえた…そういう、光に溢れた吹き曝しの場所で我々は想像を広げるのだ。
小説はそれに応答している。
絵を端緒として、想像を展開する。それも、できるだけ遠くまで。
絵に自由な風を吹かせる。それはどのような物語でもありえるような…。


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しかしこの、絵と小説の合いの子から受ける印象は、自由と呼ぶほどに明るくない。
我々の認識の不意をつく、二つの台詞。
なにかが失われた。なにが? 想像である。
青春の、やがて過ぎ去る、それゆえにきらめく、平凡だが誰もにとって特別な時間、そのような物語を曖昧に思い描いていた想像力が打ち破られて、作品は終わる。
ここに何が残っているか。想像の残骸である。
散らばり、かつて帯びていた自由のきらめきが色褪せた、想像力の瓦礫に囲まれて、私は思うのだ。
わたしには、なにもわからない、と。



 

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