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無常なる鐘の音

 二夜ばかりは鐘がなった。なかなか立派な、堂に入った撞きっぷりではなかったか、と想像される。朝昼晩と撞いたのだろう。あるいは六時にきちんと勤めたかもしれない。それから、朝の鐘は鳴ったのか鳴らなかったのか、巳の時ばかりというから、もう日の高くなった十時頃、閑になった鐘撞法師が来て、どういう男かを見てやろうと、声をかけて鐘堂の下をのぞくと、老法師は死んでいた。

―古井由吉『仮往生伝試文』

 シュルレアリスムを昔からこよなく愛していた私はアンドレ・ブルトンの『ナジャ』を経由して絵画を知った。サルバドール・ダリというスペインの画家は或いはシュルレアリストの代表として取り上げられがちだが、実のところ彼は違って矢張りトリスタン・ツァラやブルトン、アラゴンなどが取り上げられるべきであろう。画家ならばキリコ、ピカビアか。

 ともかく様々なシュルレアリストがいる中でダリという画家の人気度は高い。彼は自身の絵画に徹底的に説明的な筆を加えるからであろう。私もかつて彼の熱狂的なフアンであり、彼の全画集を購い心ゆくまで楽しんだ過去がある。 

 一九三四年、彼は『ミレーの「晩鐘」の考古学的回想』と題する絵を描いた。人間を模した大きな石造りの建造物とそれを見上げる親子と思しき人影。私はこの絵画に魔術的な誘惑を感じ一気にサルバドール・ダリなるカタルーニャ人画家のフアンとなった。

 幼い頃から半ば強制的に美術館に連行された私はミレーなる画家を漠然と知ってはいたが、果たして具体的にどの様な絵を描いているのかを知ったのはかなり後のこと。「ミレー」なる画家と「落穂拾い」なる絵画名が結合されたのも又ある程度分別を知った頃であった。そうして初めてミレーの『晩鐘』なる作品がある事を知った訳であるが、イメージの中で私は勝手にモーリス・ユトリロ的な世界観を描いていた。つまり、ヨーロッパ都市部の教会の鐘である。ベルナルド・ベルトリッチの『暗殺のオペラ』やピエロ・パウロ・パゾリーニの『テオレマ』、ルキノ・ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』或いは『白夜』等に描かれているヨーロピアンな街並みの中に現れる鐘を。しかし、実態は非常に素朴な田園風景を描いた(それは大して『落穂拾い』と変わらない)絵である事に大いなる落胆を覚えずにはいられなかった。

 そこまでガッカリしたのは私の中で「晩鐘」なるものが特別な響きを有しいているからに他ならない。「晩鐘」の響きは何か、自分を惑わせる「夢」から覚ましてくれるものであったのだ。

 例えば、中学生の折は誰しもが人生に思い悩む年齢であり、果たして自分の行き着く先は何処であろうかと答えの出ぬ答えを飽きずに思索する時期であるが、ある時、一人夕方の寂しい自室で物思いに耽っていると我が家から北西に位置する寺よりの晩鐘が聞こえ、我に帰るという事がしばしばであった。

 午睡から目覚める時も晩鐘が大いに役立ったこともあった。そして、その音で起こされる時は決まって目覚めの良い時である。微かな音であるが、しっかりと鼓膜の奥に溶けるそれは、私が見ていた夢から私を現実に戻してくれるのである。

 後年、広瀬淡窓の五言絶句
夢裏逢吾友
相携花下迷
醒來見孤蝶
飛在小欄西
 を知った時、これこそ私が微睡から晩鐘によって目覚めさせられた時に見ていた夢であると驚愕したものである。(夢と鐘とは恐らく私が蕪村の「釣鐘にとまりて眠る胡蝶かな」を無意識的に関連付けた故にそう思ったのであろう。)


と、ここまで書いてみた。だが、実際のところ私が晩鐘に対して格別な注意を払ったのは洋行後と言わねばなるまい。勿論、かつてから晩鐘を聴いてそれによって目覚めていた事実はあった。だが、それはあまりにも平生の事過ぎてその真価に気づくのには、今しがた言った通りの経験がなくてはならなかったのだ。


 私は独りパリを歩いた。下駄ではなかったが。現地に着いてどうしてもしたかった事は墓を見る事であった。

 掃苔という事を趣味にしたのは鴎外や中村真一郎の所謂、史伝物を読むようになったからだ。別に特段、己がそれらの足跡を追おうとしている訳では決してないが、散歩の折歩みは自然と墓へ向かう事がある。パリの場合もその延長であったが、そこに行こうとする意思がある点異なる。

 エリック・ロメールの『パリのランデブー』或いはロベール・ブレッソンの『たぶん悪魔が』的な街並みを些か興奮気味に通り行き、たどり着いたモンパルナス墓地は大通りからは少しばかり遠いためであろう、静かで耳を澄ませば微かにアパルトマンの生活音が聞こえた。

 様々な形状の墓標がありそこにはサルトルやジーン・セバーグ、ボードリヤール、ユイスマン、マルグリット・デュラス等々が埋葬されている。私はそれらの前を通っては佇み考える事もなく考えた。

マン・レイの墓石は削られていた。どうしたのだろうか。先客のアメリカ人カップルに尋ねたら誰かは知らないが、誰かにイタズラされたらしい。カップルが去った後、尚も私は破損した石を見つめた。その時、何処からともなく教会の鐘の音が運ばれてきた。時間的に晩鐘だろう。私はそれをノートル・ダムであると決め込んだ。

 西方の鐘は日本のそれよりも高音であった。だが哀れを誘う事に違いはない。鐘の声は何処へ行っても諸行無常の響きなのではあるまいか。

 栄華を極めた芸術家も墓に入ればそれまでである。死の実感が晩鐘により喚起された。


 そんな感慨に直面し帰朝後、私は鐘の音、殊に晩鐘となると甚だセンチメンタルになる様になった。何事も一切が無に帰す運命たる死と晩鐘の響きが初めて直結したのである。

 永井荷風の「鐘の声」なる一編には私の胸中を十二分に言い尽くす一節がある。それを引用してこの文を終えたいと思う。

 たまたま鐘の声を耳にする時、わたくしは何の理由もなく、むかしの人々と同じような心持で、鐘の声を聴く最後の一人ではないかというような心細い気がしてならない……。

永井荷風『鐘の声』

(了)

是非、ご支援のほどよろしく👍良い記事書きます。