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大田南畝 花のお江戸に遊ぶ人 『第三章 大田南畝とは誰か 前編』

  三 大田南畝とは誰か

大田南畝(本名・太田直次郎。しかしこれは通称であって、字は耜子、名を譚となす。晩年に至り第十一代将軍・徳川家斉の息子と同じ字を用いている事に恐れ多いと憚り、大田七佐衛門と改めた。筆名は数多く四方山人、寝惚先生、巴人亭等々。最も有名な号・蜀山人は彼が五十歳を超えた頃に使い始めたものである。)は寛延二(西暦一七四九)年三月三日、江戸は牛込に生まれた。彼は大田家の長男であり、上に二人の姉と下に一人の弟がいる。父は大田吉左衛門正智、母は杉田氏利世。

大田家は祖父・道寿の第から御徒を生業としていた。所謂、警備員である。下級の幕臣であり、年収も甚だ低い。この貧しさは南畝が家督を継いだ際も引き続いたのだ。貧困は彼にとって実に身近な、そして常に付きまとう即急な課題であった。

貧困の家庭にあっても南畝の母・利世は学問を重んじていた。彼女は熱心に彼を教育し、やがてその甲斐は早、八歳の頃に顕現したのである。頭脳明晰な南畝少年は母が選んだ内山賀邸を師匠にし、その門人となる。師の元で学問(主に国学)を学んだ南畝はみるみる成長し、その門下でも頭角を表した。「この児当に大成すべし」と看破した賀邸の先見の目を評価せねばなるまい。

門下では知友にも恵また。殊に菊池衡岳、岡部四冥、大森崋山である。彼らと「牛門の四友」を結成しその後、『牛門四友集』を世に出すことになったのだ。さらに彼らは服部南郭の弟子・耆山和尚の元に通い漢詩の指導を受けた。

最初の著作は字典である。明の時代の漢詩を題材とした作詩用語字典だ。弱冠十八歳である。刮目すべきはこの著作ではなく、その一年後に上梓された狂詩・戯文集『寝惚先生文集』だ。序文は平賀源内が寄せている。上梓するや否やその名声は瞬く間に江戸全域を駆けめぐり空前の寝惚先生ブームが起きたのだ。そして彼の名が京まで伝播するのもたいした時間を要しはしなかった。

明和六(一七六九)年、狂詩の名手・寝惚先生は二十一歳である。彼は、少しばかり盛り上がりを見せつつあった狂歌なるものを物にせんと狂歌の会に赴いた。そこで先生は大いなる才能を過不足なく発揮し、そこでは四方赤良と名乗り、唐衣橘洲、矢楽管江、元木綱と並んで「狂歌四大人」と称された。

名声を得た大田南畝は以後、恣に花のお江戸を遊び尽くす。戯文を書き、他人の噂話をおもしろがり、狂歌で以って世の中のあらゆる物を笑い飛ばした。或いは、彼が詠んだ狂歌でないかもしれないが「詩は詩佛書は米庵に狂歌おれ藝者小萬に料理八百善」というものがある。真偽はどうあれこの狂歌、彼の勢いが十分に感じられる。

遊女と遊びまくり、美味い酒をたらふく飲み、毎日をふざける。勿論、金はなかった。だが彼は面白い人、であった。交友関係は多岐に渡り、詩人、学者は当然であり画家、役者、役人、遊女、更には百姓までもが彼の味方であり友人であった。彼を支援する人はいくらでもいたのである。

そんな夢の様な毎日にも終わりが訪れた。

第三章 前編 完


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