宮本浩次が森鴎外から最も影響を受けた楽曲は「歴史」ではない。
宮本浩次が森鴎外から最も影響を受けた楽曲は「歴史」ではない。一般的に宮本浩次がエレカシで制作した楽曲の中で森鴎外の影響を色濃く受けたものは15枚目のアルバム『扉』に収録された「歴史」であると思われている。確かにこの楽曲は森鴎外の生涯と宮本浩次の人生を照らし合わせた歌だ。鴎外の信奉者たる(少なくとも楽曲を制作した時点では)宮本の敬愛が伺える。そしてそれが評価され昨日発売された齋藤孝著『齋藤孝の小学国語教科書 全学年・決定版』にもエレファントカシマシの「歴史」の歌詞が「国語の世界を味わおう①【日本文学・歌・評論】」の項目に掲載されている。
だが、宮本浩次が森鴎外の影響を受けたのは「歴史」だけではない。殆ど全く(!)知られていないが「歴史」以上に更に強い影響を受けた楽曲が存在する。その楽曲とは2013年に発売された45枚目のシングル『あなたへ』に収録された「はてさてこの俺は」である。
その楽曲の歌詞全文は以下の通りである。
上記の歌詞に呼応している文学こそ森林太郎(鴎外)訳ゲーテ著作の「ファウスト」である。歌詞に該当する部分は昭和四十七年版鴎外全集第十二巻を参考にすると43、44ページである。引用するに下記の通り(歌詞との類似性を指摘するため該当する部分は太字とする)(旧字体は新字体に改めた)。
以上の様にかなりの類似性が指摘できる。ゲーテによる『ファウスト』は他にもいくつかの訳が存在するが例えば新潮文庫より出版されている高橋義孝訳の『ファウスト』の該当箇所を抜粋すると「いやはや、これまで哲学も、法学も、医学も、むだとは知りつつ神学までも、営々辛苦、究めつくした。/昔に較べて少しも利口になってはおらぬ。/なるほど己は、そこらの医者や学者、三百代言、坊主などという、いい気な手合いよりは賢いし、/そうかといって、財物もなければ金もなく、ひとに崇められもせず、栄耀の味もしらぬ。/こんな有様で生き存らえて行くのはいやだろう。」である。このことから作詞者である宮本浩次が明らかに森林太郎(鴎外)訳の『フアウスト』を意識、参考にしたのは明らかである。
この楽曲の前半歌詞は森の『ファウスト』を宮本が文を整えて歌にのせるという作業をしている。しかし「頭を振るだろう」以降の歌詞は前半部分とは異なり宮本の本文に対する解釈によって成り立っているという面白い出来に仕上がっている。
それを踏まえて「はてさてこの俺は」を"読む"と全力で過ごしてきた毎日のはずなのに本来の自分が持っているはずの力を未だ解き放てていない俺、己の真価を解き放つため悪魔にさへもすがりたい気持ちがある俺、と解釈ができる。この世のあらゆる物事が知りたいファウストと己(宮本自身)を重ね合わせているのである。
エレカシには『悪魔メフィスト』という楽曲もまた存在する。悪魔にさへもすがりたい思いを持つ宮本(それは比喩であるが)の昇り続けたい意思。ニーチェ的にいえば"力への意思"或いは"超人"への意思。エレカシ的にいえば"スーパーマンになるしか"(「人間ってなんだ」(2004年))ない彼の想いを受け取れる。
ほとんど光が当てられていない楽曲である「はてさてこの俺は」は鴎外の作品を宮本浩次がどういった観点、どういった思いで読んでいるのか、その一端を垣間見る事ができる楽曲なのであった。
(了)
参考文献
致知出版社 齋藤孝『齋藤孝の小学国語教科書 全学年・決定版』
岩波書店 森鴎外『鴎外全集 第十二巻』
新潮社 高橋義孝訳『ファウスト(一)』
是非、ご支援のほどよろしく👍良い記事書きます。