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大田南畝 花のお江戸に遊ぶ人 『第三章 大田南畝とは誰か 後編』

天明六(一七八六)年、幕府の財政を管理する組織の組頭・土山宗次郎が公金を横領していたことが発覚し死罪となった。彼は大田南畝のパトロンである。土山は「行状よろしから」ざりし故に死罪となった。さらに、その二年後(南畝四十の歳)、貧しいながらも育ててくれた父親と学を授け彼の未来を信じてくれた師・内山賀邸を相次いで無くした。もはや、世を笑う事はできなかった。そんな気力もないのだ。自分がいかに不真面目だったのか反省した彼は狂歌を捨て、自己を律し再び原点たる学問に立ち返ったのである。だが、彼は幸いと言わねばならない。時恰も寛政の改革期。即ち文芸弾圧の時代であった。蔦屋重三郎や山東京伝が罰せられたが、文芸界から身を退いた彼を咎めるものは誰もいなかったのだ。

彼は身を律し幕府の元で、天下の為にその力を使おうと思った。四十も半ばに差し掛かり再び学問に取り掛かった南畝は幕府の人材登用試験を受験する。一度目こそ落第したものの二度目の試験、四十六歳にして見事周りの若輩共を蹴散らし首席で合格。彼の人生において大きな転換期となった。

その後、彼は政府の役人とし大阪に赴いた。大阪では『雨月物語』、『春雨物語』を記した不世出の才人であり奇人・上田秋成と初対面を果たし交友を深めた。そして、寝惚先生の名はここにても有名で皆、彼に句を求む。その時、用いた号こそ後世に広く知られている「蜀山人」である。

帰郷した時、彼は五十も半ば。なぜだか少しばかり昔の愉快さを取り戻していた。決別していた狂歌を再び詠む様になり、芸者に恋し、毎晩多くの友と隅田川に船を浮かべて飲めや歌えや、宴会三昧だ。

しかし文字通り「彼は昔の彼ならず」だ。大阪に続いて今度は長崎に行きの命が降った。楽しい時間もそこそこに文化元(一八〇四)年、遠い異郷との結節点に着任しのである。彼はそこで中国人と漢詩を作り、ロシアから皇帝の親書を携えたレザーノフと「右手を出し此方の右の手を握」(つまり握手)ったりして異文化交流を大いに楽しんだ。勿論、彼は長崎においても有名人である。文化二(一八〇五)年、南畝は江戸に帰郷した。

南畝還暦の年、関東一帯は豪雨に見舞われた。大阪、長崎で振るった彼の手腕を評価した幕府は次いで多摩川を見てこい、との命を下す。彼はそれに従い、冬に江戸を発し是政村 にて新年を迎えた。年老いてますます快活の彼であったがこの多摩川視察中に次々と歯が抜け、とうとう残るは五本のみとなってしまった。小金井堤の桜を看花した彼は、その美しさに感激し『調布日記』に「今日よりして遠桜と号して、此日此花のながめをわするまじく思へり」と記した。

帰郷後も変わらぬ生活を続けた大田南畝。詩作に読書に恋愛に、老いさらばえても尚、心の赴くまましたい事をし、飲みたい酒を飲み、歓談したい友人と歓談した。

文政六(一八二三)年、南畝七十五歳。四月三日、妾と芝居を見に出で自宅に帰った時に体調不良を訴えた。夕食のひらめの茶漬けを平らげた後、横臥。そのまま目覚める事なく四月六日が命日となった。最終的な蔵書数は二万冊を優に越していた。絶筆として残した和歌二首、詩一首がある。一つあげれば次の通り。

  うかりつるながめもはれておのが名もかすみてともに行くらん

墓は文京区白山四丁目三十四番地ノ七信弘山本念寺にある。「人生に三楽あり、一には読書、二には好色、三には飲酒」と言って彼は最後までそれを楽しみ尽くしたのであった。

第三章 後編 完

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