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洋行と個人主義ー永井荷風の場合ー

 永井荷風は1859年、小石川にて誕生1959年、市川市にて没した。父親の永井禾原久一郎(1851-1913)は有名な漢詩人・鷲津毅堂の門下生にして後に彼の娘を妻として迎えた。又、鷲津毅堂は大沼枕山の親戚であり、永井鷲津家の事情については後年の著作『下谷叢話』に詳らかである。

 荷風は初め漢詩人の息子ということもあり、又旅行で訪れた上海に甚だしい感動を覚えて中国語を学んだ。しかし、それも長くは続かなかった。

やがて彼の趣味はフランス文学に傾く。ゾラより影響を受けた『地獄の花』や『女優ナゝ』などがある。ゾライストたる荷風であったがフランス語を本格的に学ぶきっかけとなった作家はモーパッサンである。『ふらんす物語』の集落されている短編には、彼はパリについてまずモーパッサンの銅像を拝し、自身が彼に対する愛情を告白するものがある。

荷風は父親・禾原の命を受け銀行に勤務した。しかしフランス行きを渇望する荷風は突如として辞表届を提出しフランスへと旅立つ。リヨンでの生活を始めた荷風であるが、父親及び家族の反対の為、渋々帰国する。この間の事情は『西遊日誌抄』に詳らかである。

帰国が西洋体験を基礎とした文明評論的な作品を次々と発表する。『冷笑』、『深川の唄』、『新帰朝日記』などがそれである。執筆の傍ら慶應技術大学ではフランス文学を講じている。

大正時代に入り、幸徳秋水の大逆事件を受けて荷風は『花火』を書いた。そこに曰くゾラの様に政治的な糾弾が出来ない自分は、自分の作家としての地位を戯作者まで落とすことを決意した。

永井荷風の代表作たる『濹東綺譚』の構造はアンドレ・ジッドの『贋金つくり(Les Faux-monnayeurs)』と類似する点があり、荷風は作家になるにはジッドの小説を読むことを推奨している。

荷風は晩年たる戦後の市川時代においてもフランス関連の書物を愛読していた。荷風全集別巻の付録には荷風と中央公論社社長との対談を聴く事が出来るがルイ・アラゴンの『

『レ・コミュニスト』を読んでいると語っている。晩年の荷風宅の本棚には鴎外全集、露伴全集と大量のフランス語原文の本が並んでいた。

 彼はフランスを真なる意味で体得した文学者であった。日本で最初のindividualistであった。磯田光一は『永井荷風』において次の様に書く(講談社文芸文庫版、頁349-350)。


 死を生物学的に眺めるかぎり、永井荘吉の死体はただの物体にすぎまい。だが物理的な現実にそむこうとする「精神」の領域についていうならば、「荷風散人」は日本の近代の生んだ最初の本質的な「個人」と呼ぶにふさわしい。


 そして三島由紀夫は伊藤整、武田泰淳との鼎談において次の様に荷風と西洋との関係を語る。


 壮烈なものだな。本当にヨーロッパというものだね。僕はそういう点じゃ、あれだけ西洋を摂取した人は、少ないんじゃないかと思います。

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