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短編小説『終わりなき「終わりなき日常」』

崩壊のその予兆は決して実現せざるものなり、と横山博和は既に知っていた。だが、それでもいつかは自分を含めた世界が壊滅するという事を今や遅しと待ち望んではいる。

彼は、二十三歳の彼は思春期をとうの昔に脱してはいるのにも関わらず終焉のその時を、全てが原点に戻るその地点を、まるで備えるかの様に粛々と日々を余生の様に送っているのだ。だが実態、正しく居ても居なくても同様な存在として日常のある地点にいる。

東京都立川市柴崎町のある一隅の一戸建てに両親の下、住んでいた。十二時の時報に起こされた博和は布団の上に臥しつつも頭の中ではハローワークという文字が浮かんだが努めて消去する。枕頭に置かれた江藤淳のの著作を寝ぼけ眼で読む。

二時前。腹が減れば階下に降りて適当にトーストと牛乳を注ぐ。それは朝か或は昼餉と呼ばれるもの。どちらかは、もはや時間の境界線が曖昧だから彼には分かりかねる。

今日もやることはない。窓外は昼の高い日差しが斜に地面のフローリングを照らしている。窓辺の花瓶には某花屋から母親が買ってきた春の花が花弁に露を纏っていて綺麗だ。

静寂の食卓にての孤食。それは彼に詩趣を与えるものでもあった。もはや誰からも見捨てられ見放された現在をこの様な点で肯定せざるを得ない。

だがその静寂の家屋はまるで子供が一人で留守番している時に不図、頭に漂う漠然とした恐怖の様に居た堪れなくなる時がある。すると、まるで逃げ出す様に家を出るのだ。

その時は三時であった。モノレールの高架線が街道の中央に走る広い道を駅の方面へと歩く。

後、二ヶ月したらば二十四歳。すれ違う制服姿の男女を目撃して自分の年齢を数えないわけにはいかなかった。さて、彼は今道すがら通り過ぎた男女と同年の頃、既に学校という教育機関からは縁遠いところにいたのだ。と、いうのも彼が学校に行かなくなったのは中学一年の三学期から。それから約十年。後悔とそして悲しみともにある。一度も学校に行きたくないと思ったことはなかった。否、心のどこかではそうも思っていたのに違いはないのであるがそれよりも行って楽しそうな輪の中に自分の身を置いてみたいと常に希ってはいた。だが、それも後の祭り。そう割り切って彼は青春という現象を頭から拭い去ろうとしている。

多摩川の堂々たる流れを自身の無聊を慰めんと見に行くことがあった。その荒漠たる土手の風景は自分の行く末を思えば甚だ美しく感じる。されど、もうこのところめっきり行かなくなった。それは自身の未来にもう何も思いがなくなったからである。

行方知れずの道。それはいつもながらであるのだがそれが彼の人生たるにも似ている。果たしてどこへ行こうと頭の中で色々と考えている。金がない。それが彼の悩みでもある。財布を確認すればもう三百円程しかない。バイトをしていない彼にとって金子を得る方法は二つしかない。まず一つは祖父宅に行くことだ。祖父ならば無用者たる彼をよくよく理解してくれる唯一といって良い程の御仁であるから幾らかの金子を恵んでくれる。それもかつて財をなしているからかなりの金額を。しかしそれは二ヶ月に、或は三ヶ月に一回に止まる。それ以上金をせびりに行くのは流石の彼でも気が引ける。もう一つは、これは彼は最終手段にしているのだが身を売るという事である。中々容姿整いし彼である。ネットで寂しい人を見つけ金で以ってその肉体を慰めるのだ。だが如何せん常にはやりたくない。それが汚れた金であることを彼は知っている。どうしようもない時。つまりそれは自分が死ぬほど死にたくなった時の最終手段であるのだ。

仕方がないからこの様な金がない日、彼は図書館にて一日を潰すのであった。駅構内の雑踏を掻い潜りビルとビルの狭間を行けば図書館がある。自宅より十五分ほどだ。だが真っ直ぐにそこへ行くわけではない。駅ビルに買いもしないような洋服を見て行くのだ。

図書館は良い。特に温度が。何もせぬ彼にとって唯一居心地の良い場所であるという事を記しても決して大袈裟ではあるまい。彼には長年の図書館通いの際、出来上がった、言うなれば予約席の様なものがあった。自動ドアを潜り貸し出しカウンターを中央に右へと曲がり一番初めて目に入った椅子が定位置である。だが、その日彼は座れなかった。先客がいたのだ。制服姿の女子高生。しばらくしたら退いてくれるかも知れないという淡い期待を抱きつつも、残念なる哉、一向に退く気配はない。仕方がないから彼は全集の棚から志賀直哉全集を適当に一冊引き抜いて目に止まった誰も座っていない椅子に座った。

志賀直哉の中編一本読了。果たして感想は、ない。何の気無しに読んでいるのだから当然である。目的は楽しむことではなくただ単純に暇潰し。それより他にはない。先程の棚にそれを戻し指定席の方に目を件の女子高生は居なくなっていた。彼は今度、哲学の棚からヘーゲルの本を一冊取り出し指定席に座った。

その内、日は暮れる。閉館時間だ。否応なく外へ出なくば。

空は既に夜。電気がうるさく輝いて帰り車の音が喧しい。さて、帰るか。と行かないところが彼の現在の悩み。というのも今日は父が久しぶりに帰ってくるのである。

彼の父は出張が多い。そして姉もいるのだが、その姉は現在欧州の大学にて滅びゆく運命だけしかない少数民族を研究している。その煩い二人がいないからこそ自宅をユートピア化している訳だが今日は父が帰ってくる。父親は何もせざる彼の将来と自分の周辺からの面体を慮って相対する度に慇懃とした態度でこういうのだ。

「あなたは将来どうするつもりですか」

彼はそれを言われるたびに答えに窮し何もすることも、少しばかり積み上げてきた自我みたいなものを崩壊させられる。だからなるべく、出来るだけ顔を合わせたくないのだ。幸いにも父は明日にもまた別のところに出張する予定であることをリビングのカレンダーで確認済みだ。だからこの一夜。この一夜のみ逃げ果せれば、あとはまず安泰。

「ねえ、華、今日家行くね」

と電話した。彼はこの時の為に奥の手を残していたのだ。

さて、彼と彼女の関係性について述べておく必要があるだろう。

大島華は彼が家族の次に最も長く交友している女である。母の友人たるある女の娘だ。同い年だらかという理由で物心つきしその時から遊んでいた。中学生の頃、彼が学校に行かなくなってよりは街も違うという理由から没交渉になっていた。しかし三年前、彼女が立川の風俗で働き始めたのをきっかけに国立駅近くのマンションに引っ越してきた。どういう運命がそうさせたのか、彼と彼女は立川の映画館で再開したのである。そしてそのまま二人はかつての淡い恋心が再燃しセックスをした訳だ。

ちなみにその時、博和は童貞を失した。それからというもの時折彼女と会っては無意味なる一夜を過ごすのである。

電話の向こうで彼女がただ一言「うん」と言ったものだから彼は内心「これで逃げれる」と安堵した。

国立駅にほとんど接近する区域に彼女が住むアパートがある。そこは別に何の変哲もないし仮にここが別の建物になったとて或いは誰も気が付かぬのではあるまいか。

四階に彼女の部屋がある。繰り返される逢瀬によって合鍵のありかを熟知している彼はそれを見つけ開錠し扉を静かに開く。申し訳程度の薄暗い廊下を進み月当たりの扉を開けばドレッサーの前で化粧をしている彼女がいる。彼女は彼に目もくれない。室内には沈沈と彼女と彼の服の擦れる音が聞こえるだけだ。そんな沈黙に耐えかねた彼は眼前に広がる光景で彼女がこれからどこに行って何をするのか心底了解しているのにもかかわらず尋ねざるを得なかった。

「どこ行くの?」、と。

案の定返答しない。そんなことは聞いてくれるな、そう言いたいのだ。彼は無視されることなんぞ百も承知だったので大して気に求めない。さてこの部屋に入ってからセックスの予兆に男性器は少しばかり勃起していた。愛情より性欲の方が真なり。と彼も彼女もそう思っていたのだ。

彼は洋服を脱ぎベットに座った。ひとしきりメイクをし終えた彼女は彼の方を向き、普段している事と同様の事をするのみであった。

やがて事が終わる。感動も感情すらないそれは別にどうというものでもないのだ。ただ日常のその延長として記憶も忘却もされないつまらない瞬間という他ない。

ベランダから暗い夜道を歩んで歓楽街へと消えて行く彼女の背中を見ている。

彼の頭に「死」の文字が浮かんだが、それは決して実現され得ない空想であった。

是非、ご支援のほどよろしく👍良い記事書きます。