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短編小説『「誰かの誰か」として 三人の物語』

名にしおはばいざ事とはむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと

在原業平

第一章 桜の後

初恋の人との恋愛は、今はもう、おとぎ話のようで。
涙を流した日々さへ単に形式だけの儀礼に過ぎなかったのではないか。そう訝しむほど人生は過ぎていた。

春先に彼は新しい職場でプログラマーの仕事を再開した。職場と言えどもそこは、彼の新しいマンションの一室に他ならない。個人事業主として細々と、自分の出来る範囲のコードを書く日々。張合いは無い。しかし彼はそんなもの求めてはいなかった。ただ毎日を、自分が十分に生きていると実感出来ればそれで良いのだ。
前の、もう大学を卒業してから勤めていた会社では、そんなものは得られもせずまた、彼自身も望んではいなかった。
代々木の外れにあるビルに越してきたのは、丁度梅雨入り宣言がなされた頃。北側の窓からはしきりに降る雨。煙る東京の街に聳える電話会社のビルが見える。彼は朝起きる度にその建物を、まるで自分が東京にいる証左の様に僅かな誇りを瞳に宿しつつ見る。  
豪徳寺に彼が住んでいたのは、小学生の時から中学の途中まで。当時の彼は別に東京という街に思い入れなんかない、そう思っていたが矢張り遠ざかると心に映るその景色は、東京のあの摩天楼に他ならなかった。
晴れた日には、彼は必ず一時間、乃至二時間(時としてそれ以上の)散歩に出掛けた。デスクワークが主体の彼にとって唯一の健康維持のためしている事だ。どこへ行くという訳でも無い。ただ、東京の街を心行くまま歩いているだけだ。
かつて何よりも愛した女性を街で見かけた。そんな日もあったが今はもう霞んだ春の白昼夢に過ぎない。真意は兎も角、彼はそう思い込む事によって、彼女は彼を取り巻くセカイ全てと同等の存在だ、とそう思っていたかつての自分と決別したのである。

梅雨明け宣言で陽炎が立つほど蒸し暑い渋谷のガード下を歩いている彼の横を共に歩く真鍋珠美という女性と出会ったのは、そう昔の事では無い。彼が頻繁に出入りする古本屋で店番をやっていた。どうやらその古本屋の亭主の親戚らしかった。二人は次第に懇意になり五月頃、交際を始めたのだ。 
時折、彼女は彼の家に来てはソファーに寝転がりタブレットで静かに読書をする。決して彼の仕事の邪魔はしない。彼とて少し位音を立てても構わないのだが、彼女はいていないように、常に静寂を保っている。トイレなどに立つ際、初めて存在を知覚出来る程だ。仕事がひと段落着くと散歩に一緒に出たりする。その静かに微笑む姿は、かつて彼が愛したどの女性にも似ていたし又、少しづつ違ってもいた。どんな時でも彼も、そして彼女も決して昔話はしない。胸中には昔の思い出を、広がり続ける銀河のように抱えていながらも。
夏の夕暮れに空は紫に染まっている。星空は、海原の様に二人のセカイの外側にも満ち満ちていた。

第二章 遠い遠い場所を見ていた日々

海は人がやがて帰るべき故郷だ。そう誰かが言っていた。彼女もそう思う。明け方の、人のいないビーチで嵐の後のやや高い波に乗りながら。   
波に乗る時。いつも思い出すのは故郷の波に初めて立てた際、そのサーフボードの振動である。何でも出来る、あの時はそう思えた。今は何が出来るだろうか。彼女はいつの間にかそう考える様になっていた。
七時半頃に、彼女はいつも引き上げる。観光客がいない静かな時間帯のここは、故郷の浜に似ている。彼女と、彼女の事を見守っていた彼女の姉。二人だけの世界。そしてその時、胸に秘めていた彼に対する淡い気持ち。

南の小さな島から上京した後に稲村ヶ崎に住むようになったのは、些細なきっかけで出会ったサーファーと結婚したからだ。かなり早い結婚で友人、知人らに驚かれはしたけれど仲睦まじく協調して今は、十四歳の一人娘・佐竹伊織を育てている。

娘にボーイフレンドが出来た事を知ったのは彼女が丁度、買い物帰りに見かけた事からだった。

七月の暑い日の夕方、遮断機が降りた踏切の向こう側、制服姿の伊織と彼女自身も幾度か見た事のある、娘と同級生の少年が背を向けて歩き去って行くのを目撃した。電車に視界が遮られ二人は見えなくなったが、確かに一瞬少年が娘の頬にキスをしていた様な気がして内心、自分も少女の頃の事を思い出さずには居られず、微笑んだ。
少女だったあの頃、彼女のセカイはただ一人と男の子によって構成されていた。高原に座って海の向こうの水平線を見る彼は、誰よりも大人で、どんな人よりも世界の秘密を知っている様に見えた。そして、同時に彼の眼差しには彼女なんて、少しも写ってい無いことも彼女は知っていた。
長いスランプの後、波の上に立てた時、それは勘違いである事は誰よりも分かってはいたのだが、一瞬だけ彼の眼差しを強く感じる事が出来た。今なら彼は私を見てくれる、そう思った。
ひぐらしのなく声を四方に感じつつ、彼女はどこまでも続いている田舎の道を彼と二人で歩いていた。その時も、彼は彼女よりも一歩も二歩も先んじて歩いてた。遠くの潮の香りがする。彼女は背中を見せる彼との間に、遠い遠い宇宙の彼方までの断絶を感じざるを得ず、私は何も出来ない、とうい遣る瀬無さから、嗚咽し涙を流した。そんな涙さへも、人類の希望を載せ故郷を遠ざかるものにかき消された。
結局彼女が彼への好意を告げたのは、別れ際。空港での事だった。

夜七時頃、彼女の旦那と向かい合って夕飯を食べていた。彼は、今日一日会社の出来事を話、彼女はいかにも可笑しそうに語る彼の語り口を面白がり笑う。玄関の開く音。それと共に娘がリビングに姿を現した。娘は、二人の笑いあっている姿を見てか、それとも彼女のごく私的な出来事からか幸せそうに微笑んだ。
眠る前。寝室のベランダに立ち、闇に沈んだ海を見る。海原に反射する星々。断続する車の音。その合間にそよぐ波の音。娘もいつか大人になった時、時に押し広げられた宙の広さを知るのだろう。そう思った。
波は悠久の時を刻み続ける。万物の記憶を載せつつ。

第三章 春雪が溶ける日に

江戸川を超えて東京は終わる。千葉は真間の継ぐ橋の丘の上に彼女の家は佇んでいる。街を見下ろす様に。

昨日一日を通し季節外れの雪が降り、彼女は朝には止んでいるだろうと思い目覚めて見た。案の定止んではいたものの窓外の街は白く、朝日を強く反射している。
彼女は別に最初から雪が好きだった訳でない。雪の記憶を辿るとただ一つのみを除いてすべからく苦痛を伴うものであった。あるいは追憶の歳にそのただ一つの記憶も苦痛に変わる時さえあるが。
隣の彼はまだ寝ているし、もちろん彼女の産まれてそう経っていない息子もまだ夢の中だ。彼女は二人を起こさぬよう、そっと寝室を抜け出す。
いかに厳寒とあれどポストを確認するのを彼女は長い事、習慣にしている。小学生の卒業式を境に当時好きだった彼と手紙をやり取りしていた時から。もう、十五年も前の事だ。彼女を取り巻くあらゆるものは流れ続けいつしか季節を感じる事も物憂くなった。結婚して子供を産んで、父親を見送って、彼女の母は栃木の何も無い荒野で一人、いる。
彼女が再び手紙を書き始めたのは母の無聊を慮ってのことからだ。
大体、三ヶ月に一通手紙が送られてくるし、そして彼女もそれに呼応して送り返す。そのやり取りの中で、少なくとも二人の間には四季があるのだ。そう改めて自覚的になれた。そして母との手紙を四季を味わう心を忘れた彼女のリハビリとしても作用したのである。

その雪の日、ポストに母からの手紙が届いていた。
いつも通りの通信。自分の身の上話。健康の話など。しかし、彼女は最後の文章に目を奪われた。『桜の木は都市開発で伐採されるらしいです』というものだ。桜の木などは、あの町に沢山ある。だが、彼女は知っていた。母が言っている桜の木は“あの”桜の木であると。
急に自分の体が、あの日あの時タイムスリップした様な感覚になった。雪の降る日に、時々思い出す思い出の中の彼と、初めてキスをしたあの日。微笑ましい、今はもう彼女だけの思い出。
誰もいない明け方のリビングの静寂をかき消すように、息子がまだ拙い足取りで階段を降りて来る音が聞こえる。
こうしてまた一日が始まる。

エピローグ <セカイ>から決別した<世界>へ

はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから おまへはわたくしにたのんだのだ 銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの そらからおちた雪のさいごのひとわんを…

宮沢賢治『永訣の朝』

朝。まだ陽が開け切らぬ街。
ワタリドリが新宿の高層ビルの頂きに佇み、真夏の高い高い入道雲を背に、広がり続ける東京の街をば見ていた。秩父の連山から流れ出た水が長く尾を引き、墨田の川はやがて茫漠たる始まりである東京湾に注ぎ込まれる。
ワタリドリの羽ばたきを、誰も知りはしない。東京の街を鳥瞰して、ビルの合間を超スピードで縫い、人々の間さへすり抜けて。時に空高く舞い上がり、夕暮れの、彼方の描線に接した太陽を浴びる。空では地平線が丸く見える。永遠の空白の始まりを示しているのだ。
風を切り、歩行する人々の背後に横たわる長い長い歴史も、何もかもを一切に捨てて。遠くのまだ見ぬ、名状出来ない、光の中に向かって飛び続けた。
それは私たちの人生のようで、とてもとても美しかった。


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