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本当の「自分」を求めて ペス山ポピーの作品について

私はペス山氏が描いた二作の漫画は他に日するべくもなき率直性を持った作品であると、そう思う。この作品は読者に思想的革命を与え得るものである、そう思った。それはこの作品の題材が至極個人的だらかである。


この作品は徹底機的に私というアイデンティティを模索する漫画である。一作目が自らの性欲、二作目が自らのセクシャリティである。両作に共通するものは己が生命への徹底的執着に他ならない。そしてどのようにして最大の敵たる自己と和解するか、或いは和解したかが描かれている。そういう点においては日本近代文学の流れを汲んでいるように私は思う。
国木田独歩の『忘れ得ぬ人々』に描かれたような自意識。日本自然主義の始祖たる性欲告白譚『布団』。更には夏目漱石の『三四郎』描かれる中央に接し自己のアイデンティティの模索。それらを包括しつつもさらにパラフレーズし現代の枠に入れたような作品だ。

新しいアイデンティティの模索。それは自己の性への戸惑いというものが一般的に許容された昨今作品として取り入れようとした表現者は或いは多いかも知れない。ペス山氏の作品において素晴らしい所は(それは勿論新たな自己の探求に重きを置いているが)追憶の描写の巧みさである。いずれの作品も自己の記憶を辿って遡ることが多々ある。その際の街角の風景、友人描写、風土の感じ方、どれをとっても新鮮でもちろん読者はそれらは体験したことがありはしないのであるのだが、読者たるも主人公の眼前に広げられた光景及び神作を生き生きと感じることができるのである。そしてだからこそ読者が体験した事がないであろう加虐性の性愛描写やセクシャルハラスメントの描写は時として痛みを伴うほど納得できるのである。

三島由紀夫への言及があった。それは唐突な事である。そしてともすれば脈絡のなさに驚くかも知れない。だが私はなぜだか大いなる納得をせざるを得なかった。それはペス山氏の解釈が大いに含んではいる(本人もそれを認めている)が、他者とは異なる肉体から感じてしまった疎外感というのは(その真意がどうであれ)両漫画を読み解く上で大いなるキーワードとして大いに機能している。件のコマは最も作者の内奥が滲み出ているというべきだろう。

私的三島由紀夫への見解を申しあげるならば彼は確かに自己の肉体的脆弱さにコンプレックスを抱き自己の同性愛的傾向も相まって甚だしきコンプレックスを抱いていたとお思う。そして肉体鍛錬を皮切りに理想の自己を取り戻していたかのように感じたが彼が求めていたのはそのさらに高みであったことが彼を自刃へと導いたものである考える。

閑話休題。両漫画には不思議な力が流れているという他ない。もちろん痛み、悲しみ、絶望、後悔それらが渦巻いている。それは作品の傾向として明らかであると同時に当然である。だが、(というべきか或いはだからこそと言うべきか)それからの再起が非常に力強い。まるで昨日の己を殴り殺しているようだ。とことん殴り否定し存在をなきものへとして、それでいて大いなる抱擁を与え肯定する。それは過去への贖罪と共に優しさを著しく内包しているのだ。だからこそペス山氏の漫画を読み終えたとき清々しく感じるのであろう。

最も優れた芸術とはなんだろう。そういうふうに考えると私は矢張り自分語りであるという結論を採用したい。悠久の歴史の中において人は孤独である。されど一番のともこそ自己自身である。だからこそ、である。だからこそ日本においては日記文学という身辺ざきいの優れた表現が生まれ、中国に於いては自己を媒介とした人との付き合い方を伝授する儒教が生まれ、遠く離れた西洋では自己とは何かと思推する哲学が生まれたのではあるまいか。そしてそれらは徹底的に個人の集約した思想ではありながら我々読者を癒してくれる。或いはペス山ポピーの作品も徹底的に個人的なる事を題材しているからこそ読者に至上癒しと赦しを与えてくれているのではあるまいか。

ペス山ポピー氏は我々には想像のつかない魂を未だ隠しているように思われる。と、いうのも本筋とは然程関係のない(と思われる)一コマ一コマが余りにも観測不可能な広がりを感じるからである。果たしてこの先いかなる作品を我々読者に提示してくれるのか。全く楽しみでならない。

(了)

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