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五竜岳東面の岩場(「山桜通信」52号)

学習院大学山岳部 昭和32年卒 設楽美徳

後立山のなかでも五竜は展望に恵まれている。その頂を中心に、国境稜線の東側を五竜東面と呼び、10本程の尾根が白岳沢に落ちている。

国境稜線を歩いていたのではこの岩場はあまり注意をひかないし、全貌を掴むことはできない。それには西遠見が一番よい。しかし、遠見尾根を登ってくればいやでも鹿島槍の北壁が目にはいる。これで五竜の東面はだいぶ損をしなければならない。それは、あまりにも豪壮、闊達な北壁にくらべれば、五竜の東面は、あたかもビーナスの横に少々の美人を並べても、ただ美の神の引き立て役にしかならないのと同じである。

しかし、それ程の美人ではないとしても、やはりひとり青い芝草の上に寝ころんで、低いシラビソの頭越しに眺める五竜の東面は美しい。この西遠見の池は五竜東面のためにこそあれ、北壁やカクネ里の雰囲気にはそぐわない。
隣のカクネ里が戦前すでに一応のトレースが終わっているのに比し、五竜東面は昭和八年に前田光輝氏が最初に入られたあとは、昭和二四、五年の京大まで空白であったが、その後、昭和二七年以降登嶺会で度々入山しはじめてからは、幾多のパーティーによって各山稜がトレースされている。

現在では、五竜東面といえば白岳沢の右岸と国境稜線にはさまれた部分を指すのが普通で、10本程の尾根を数えることができる。

後立山の一般的特徴として指摘されるとおり、各尾根の北と東側の傾斜が強いのに比し、南側はより緩い。各尾根の殆どはブッシュに覆われ、傾斜はそれ程急ではなく、尾根の上にある岩峰または壁の部分が大方のポイントになっており、末端は切れ落ちて壁も形作っている。

一~三月の積雪期には、これらの壁や岩峰は大体雪壁と変り、G5~G7には茸雪もできる。四月も中旬になると、尾根の下半分や急傾斜の所では雪が落ち、ブッシュが現われ、茸雪や雪壁は崩れはじめて、ルートは複雑になり、部分的には意外に悪くなる。

この岩場を西遠見から見る時に最も特徴があるのは、五竜の頂上付近にある四つの菱形に割れた黒い岩であろう。この岩峰から出ている大きな尾根は、その裾を三分しているが、これをG2と呼んでいる。
G2の左、スカイ・ラインに尖峰を立てた。上下二段の壁の上部壁がG4である。
G4の左、頂上直下に赤茶けた壁を持つ長い尾根がG5で、春にはヒマラヤ筋ができる。

国境稜線からカクネ里と白岳沢の出合に伸びる大きな尾根が北尾根である。
白岳沢の左岸は一面ブッシュに覆われ、二、三の沢が流れ込むが、どこも登攀の対象にはならない。ただ、西遠見や大遠見から白岳沢への下降ルートに利用されるだけである。

白岳沢は五竜小屋の下のカールから出て、G0の末端に狭められ、すぐに広くなり、緩くS字状に曲り、カクネ里との出合が近づくとふたたび細くなる。秋も遅くなると、G0の末端にA沢にまで達する滝が出る。カクネ里との出合の少し手前には、夏でも割合早くから滝が出るが、これは左岸を高捲く。白岳沢の下降は、夏でも早いうちで雪渓の状態が良ければ、荷物を持っても一~二時間くらいだが、雪が少ないとG5の末端あたりより渡渉や高捲きをしなければならない。 (2017年1月29日逝去)

(「東京創元社 現代登山全集4(白馬 不帰 鹿島槍ヶ岳)より転載)

設楽美徳が描いた西遠見からの五竜岳東面の岩場・雪渓のスケッチ
登攀後の設楽美徳(昭和31年ごろ)
青春をささげた鹿島槍北壁前で(昭和31年ごろ)
昭和31年6月の鹿島槍ヶ岳カクネ里正面尾根登攀後(左端が設楽美徳)

設楽美徳(しだら よしのり)
1933(昭和8)年生まれ、1957(昭和32)年卒業。卒業後はOBとして現役の活動にかかわられた。学生時代に「上州屋設楽彦吉商店」(現社長は設楽徳子氏)のアルバイトにお世話になり登攀道具を購入した者も多い。
二年連続遭難の翌年の夏山の岩登り合宿に、涸沢までお嬢さんをお連れして、現役の激励に登場したことは40年を経ても伝説「設楽さん登場!」になっている。(当時、50歳)

2017(平成29)年没。

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