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近藤岩は見ていた(「山桜通信」52号)(原文)

学習院大学山岳部 昭和39年卒
学習院高等科山岳部 昭和33年卒 八木 實

剣沢大雪渓を下りつきるところに、三の窓雪渓が合流する。その地点を剣沢二股というが、この出合いに大きな岩があり、近藤岩と名付けられていた。その辺り一帯はキャンプ地としては快適な平地があった。二股は剣沢大雪渓、三の窓雪渓、小窓雪渓、或いは源次郎尾根や八峰を経て剣岳に攀じるとか、ロッククライミング、反対側には黒部別山など道がついていないような深い山など魅力にあふれていた。そこは裏剣とも呼ばれ、アプローチが長く二股に定着する人たちは少なかった。学習院大学山岳部が二股を夏山定着合宿地として、活動を始めたのは1954(昭和29)年、大場リーダーの頃のようである。以後昭和32、34、36、37、38年それぞれの年代が定着合宿をしているのは驚きだ。

何故にこの10年間の間、二股の合宿に集中したのか記録を眺めてみたが、この時代突出しているのは部員数の多いことのようだ。昭和29年で1~4年次で30名を超え、鹿島槍遭難の年でも36名、36年までは34~5名は居た。特に1年次の新人部員が多いことだ。記録を見ると、新人は山が初めての部員が多かった。二股は剣岳の懐なので前述の如く絶好の場所で、他にない条件が揃っていたと思う。この時代の部員達は、二股の近藤岩を見ながら歩き廻ったことを記憶しているにちがいない。ところが学習院大学山岳部はこの時代を境にしてどんどん入部者が減っていった。そうなると少数精鋭型の山行になって、わざわざ遠い二股に来る必要がなくなり、それぞれの年代のリーダーの考えで、新人を強化し、中堅部員を充実させ、満足できる夏山合宿が出来たと思われる。(*1)

そういう私自身は、昭和30年代の部員なので、近藤岩にお目にかかっている年は1年次(新人)と3年次、4年次(CL)と3回もあるのだ。定着合宿は非常に効果があったが、その後中堅部員以上は少数パーティーを組み、興味ある山を選び数パーティーに分かれて出かけるが、1年部員は面倒を見る中堅、上級部員が付いて日本アルプスの縦走をするのが常識的な行動であった。この時代の新人部員は5~10人位居たので、これが一列に長く登山道に並ぶと、行き交う登山者達は立ち止まるしかなかった。

私が新人部員として二股合宿に参加したときの記憶は、今でも「いやな」思い出として、まざまざと残っている。おそらくこの頃の新人部員は同じ思いで記憶していることであろう。まさしくシゴキのミソギに遭ったのはこれ以外にない。新人は特大のキスリングに約60kgの荷物を背負わされ、富山地方鉄道終点から称名川に沿って、長い列を作って歩き出すのだ。前年にシゴキを克服した2年部員が先頭に立ちその後ろを新人が続く、30分位のピッチで休憩が入るが、そこまでもたず、歩みは遅れ、たちまち立ち止まり動けなくなる。上級生は叱駝激励、罵詈雑言を浴びせ、なんとか動かそうとする。弥陀ヶ原のアルペン道路に出て、登山客を乗せたバスが行くのを尻目に、くたばった新人は道路サイドのドブ川に顔を突っ込み水を飲む。雷鳥沢あたりに幕営一泊後、別山乗越からひたすら剣沢を下り、二股まで二日間で入山する強行軍だ。自分は高等科山岳部で既にキスリングで南アルプスなどを縦走していたので、要領よく動けなくなった同僚の後ろで立ち止まっていられた。歩く姿は手ぬぐいを首からかけ、両手でしっかりと握り、下ばかり見て歩くから、良い景色を見るなんて出来ない。以後おかげで都会を歩いても下を向く癖が付いてしまった。剣沢の下りに入ると急にピッチが上がりへばる者は置き去りにして、一人ずつへばらせる体制に入る。一緒に頑張っていたH君が次は俺の番だといいながら、突然小さな沢をわたるとき、つまずいてひっくり返った。わざとかどうか不明である。おかげで私は少しピッチを落とされ、無事二股着、幕営作業に入った。H君は口の中を切り一時下山したが富山の松田昭子さん宅で治療後、元気で旨い越中味噌を担いで再入山してきた。定着合宿明け後、分散、新人達は穂高までの縦走だった。重い荷物はやや平均化されたが、新人にとっては周りの景色を楽しむ余裕はなかった。しかも南岳稜線で台風に遭い、夜中から明け方まで、天幕の支柱が折れないよう押さえて頑張り、シュラフは池のように水がたまり、疲労困憊で槍沢を下山した。

この時代の学習院大学山岳部の二股の合宿は全く同じ速成教育方式をとっている。入部する新人の半数は初めて山靴を履くとなれば、このような方式をとらざるを得ないからだ。しかしながら、楽しい山登りが出来ると思ってきた新人部員は失望し、夏が終わって秋山の計画の話をする前に、姿を見せなくなってしまったのは少なからず、悲しい思いをした。

1971年まで学習院大学山岳部の部長をされていた木下是雄先生は、出身山岳部、TUSAC(東大スキー山岳部)より親身になって学習院大学山岳部の面倒を見ていただいたが、後に「大学山岳部のかかえる問題」(木下是雄集Ⅱより)(*2)という論文を著述されているが、実によく問題点をとらえており、批判と慚愧に堪えない。私が長年悩み続けてきたことへの解決策を見事に指し示しておられる。体力を作るのは必要な要素ではあるが、山岳部員の訓練の主体をなすべきものではない。しかし、速成教育方式を否定するまでは言っておられない。これ以上内容を詳述することは、ここでは避けることにする。

いずれにしても、私はこの時代シゴキ訓練をしてきたことには消え入りたいほど後悔している。近藤岩は「また馬鹿どもが来たわい」と言っていたのではないか

ところで近藤岩は、昭和40年の大土石流で砕かれ三つになって三の窓雪渓の左岸に流れ着いたそうである。
ちなみに近藤岩の由来は、日本山岳会の近藤茂吉(吉田孫四郎らに次ぐ剱岳の登頂者、三校部報6号、大正8年)に因む。

(*1) 昭和41年以後、「真砂沢定着」が23回実施されている。その後、昭和60年以後、「剣沢定着」が15回実施されている。
(*2) 「木下是雄集2」 晶文社
1996年1月25日発行 
「大学山岳部のかかえる問題」の章を一部抜粋する。

 大学山岳部の問題点(箇条書き)
  箇条書きにすると以下のとおりとなる
  ①大学山岳部の新人は戦前に比べて2歳若い
  ②彼らは、まったくの新人と考えること
  ③それが現実だが、大学山岳部は目標を下げていない
  ④したがって、促成・大量生産型教育が必須になっている
  ⑤それは合宿制度という形で実施されている
  ⑥それによって、狭義の技術・体力は習得できている
  ⑦足りないのは、総合判断力
  ⑧総合判断力を養うには時間がかかるが、一案として小パーティーの
   自主独立の山行や読書が必要
  ⑨「山のこわさ」を実感させること。これなしにはリーダーの資格は
   ない
  ⑩大部分の大学山岳部のリーダーは経験不足
  ⑪経験不足で、総合判断力がないので、これを補うには現実的では
   ないが5年生がリーダーになるのが望ましい
  ⑫リーダーへの勉強のために「知らない山」を登る試みを勧めたい

このような私の意見に対して、大学山岳部のOB・現役からは「ステップ・バイ・ステップのやり方の良さを認めるが、それでは4年間で大きな山登りは1つとしてできない」との意見がある。

でも、それが大学山岳部の厳然たる事実なのである。私が指摘する「できない」が正しいのである。この当然なことは、いかにOBや現役が気に入らないことでも現実。認めないといけない。大学山岳部がこの現実を認めず、無理に背伸びをすれば、二度三度は成功しても必ずいつかたたかれることが来る。大学卒業とともに、山登りが終わるわけではない。私が考えるヒマラヤ適齢期は25歳だからである。

「木下是雄集2」晶文社 
「大学山岳部のかかえる問題」

「新制大学山岳部の諸問題」の表題で、『滝谷 1959年10月18日』(東京大学スキー山岳部の遭難報告書)に掲載(初出:1960(昭和35)年)

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