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光徳小屋の思い出(100年の自画像)②

学習院大学山岳部 昭和47年卒 秦野郁郎(山桜会小屋係)

 近くの稜線に熊が散見され、疲れたなどと言っていられる状況ではなかった。 その後夏合宿・秋のボッカ登山などを経験したが山登りに喜びを見いだせず退部を申し出たが、先輩から山に登らなくてもよいから光徳小屋係りを続けてくれと滞留を強く求められ、光徳小屋はその後も何度か行っており、管理人さんの奥山さんとも相性がよく抵抗感もなく小屋係りを受け入れた。

 小屋の仕事は、布団干しだろうと決めていたが私が行くと奥山文雄さんは宇都宮の家族の元に下山し、その間は薪ストーブの炊き上げや薪割、ごみを捨てる穴掘り、ゲレンデの夏草刈り等仕事はいくらでもあり、夏休みいっぱい光徳小屋に居るはめとなった。 不思議に仕事が辛いと思ったことはなく、田舎にいたころはどこの子供も親の仕事を手伝だったからよけいに光徳小屋が好きになったと思いだされる。

 当時の光徳小屋には明確な定員の概念がなく、学校もおおらかで貸切時は三十人でそれをオーバーしても文句もなく、交代で寝る等の楽しみを含めて現役の子供が週末ごとに押しかけてきて楽しんでいた。 私が光徳小屋係りをしていた頃の会計報告書のコピーが見つかり、年間2,388人の利用が見られた。 理学部の教授を中心にした研究室単位や、文系のゼミのグループが貸切で利用したり、多くのクラブ活動の親睦のためや合宿などにもたくさんの学生が訪れていた。

 体育科の出席不足の学生さんの補講としてのキャンプ場としても利用されていた。 大学四年間はあっという間に終わりましたが、今思い出されるのは光徳小屋係りとして多くの人と知り合い語らい、社会に出てからの基礎となる勉強を知らず知らずのうちに積んでいたとも考えられます。 昭和四十七年春に社会人になり光徳小屋や山岳部との接点はなくなり、時々送られてくる後輩やOB・OGの活動報告が唯一の情報源でしたが、ほとんどが山登りの情報であり私の興味を引くことにはならず光徳小屋の思い出も消えかかろうとしていました。

「光徳小屋の思い出(100年の自画像)①」から

「光徳小屋の思い出(100年の自画像)③」へ

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