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積雪期の剣岳八峰のトレース(「山桜通信」52号)

編集部

1958(昭和33)年3月、山岳部は剣岳西面において参加者14名で春山合宿(3月1日~3月19日)を行った。

北ア・剣岳集中(赤谷尾根隊:赤谷尾根~剣岳(途中、毛勝山往復)、早月尾根隊:早月尾根~剣岳~長次郎谷~八峰(Ⅰ・Ⅱ峰のコル~Ⅷ峰)~剣岳、小窓尾根隊:小窓尾根~剣岳)
赤谷尾根隊(右川清夫(CL)、高久順平、川崎巌、高野實之輔、古屋勝彦、川村博俊)
小窓尾根隊(田中和雄(CL)、玉田信之、練木允雄、中村直倫、武田宗之、黒沢慶一、野村勉、今村久男)
この合宿の記録の中から、積雪期剣岳八峰のトレースを掲載する。

「積雪期の八峰へ」

学習院大学山岳部 昭和34年卒 田中和雄

積雪期剣岳八峰のトレースは、田中和雄CL(3年)と練木允雄(2年)が実施

剣岳概念図
剣岳八峰

(三月一日~三月十三日は省略)

三月十四日(風雪、停滞)
考えてみれば我々の行動は予定通りであるが、C1、C2への食糧燃料の荷揚げ量があくまでも一日の行動日に対して三日の余裕を見てあるのだから、好天候がつづけばその停滞予定日の分量を削除すべきであった。我々は剣岳西面の悪天候をあまりに深刻に考えすぎたのかもしれない。だが、こんな連続快晴は春山の常識ではあるまい。だからその天候判断に基づく荷揚げ量への考慮に今少し慎重だったならば、AC建設はもう一日は早められただろう。

風は絶えず北西から吹き付ける。積雪は5㎝、春の雪には珍しい乾燥雪である。しかし冬の乾燥雪とは比較にならぬ程粘り気がある。夕刻になるにつれ八峰に対する懸念が襲い掛かる。八峰の参考文献は皆無に近く、ⅤⅥのコルより上も精密な記録を探すことはできなかったのだ。上半にせよ下半にせよ、リッジに出るまでは例年ひどいラッセルを強いられる。所要時間は雪質の如何により不明。雪庇とナイフリッジの連続。しかしやるならば下半から忠実にリッジ通しに八峰の頭までを通したい。

食糧は行動食四食分、食べ延ばせば三日は持つ。装備も露営用具を一式ザックにしまった。夜、静まった天幕の闇の中で目を見開いていると、恍惚と不安とが交互に行き来する。空には再び星がまたたきはじめた。

八ッ峰装備
ナイロンザイル 30㍍ 1本
ハンマー        2本
カラビナ       10個
ロックハーケン 縦横 各7本
アイスハーケン     3本
ツェルト        1張

三月十五日(晴れ後小雪)
「快晴ですよ!」という食当の野村勉の声が明るい。心尽くしのラーメンを流し込んで4時50分、田中和雄、練木允雄の二人はピッケルを振って、明るみはじめた白い後立山連峰の東の空に朝の挨拶をする。天幕から長次郎のコルに下る岩稜に意外に時間をとられ、コルに立った時は山はモルゲンロートに輝き、しだいに朝焼けの不気味な紅色に変わっていった。旧雪はクラストしており昨日の僅少の雪が適当にパックしているので沢は雪崩の心配はない。

6時10分に長次郎沢を慎重に下降しはじめたが、夏の雪渓よりも遥かに傾斜はなく、体の重量と膝のバランスとで泳ぐようにしてグリセード気味に下る。練木はここでシリセードを始める。凄いスピードだ。田中も負けじとその後を追う。雪はまったく潜らない。大丈夫やれるぞと無言で頷き合う。
「下からやりましょう」という練木の力強い声に躊躇していた田中の心も素直に決まり、ⅤⅥのコルを横目に睨んであっという間に、ⅠⅡのコル下に着いた。この間17分であった。

尻の雪を払い落してすぐにⅠⅡ峰間に突き上げる急峻な沢をルートにとる。ラッセルは時に膝くらいまでだが大体踝までの快適な登高である。丸一時間でこの沢を乗り切りⅡ峰の肩に飛び出た。そのピークに立って前方を見た我々は思わず息をのんだ。八峰は完全な雪のナイフリッジとなり、巨大な雪庇が延々と三ノ窓側に張り出し、隆起の一つ一つには見るも危なげな団子状の雪庇がまるで波の砕ける瞬間のように、捲れ込み、跳ね返り合い、折から姿を現した太陽に照らされて・・・これを何に例える術もない。

「天国への階段か?」と陽気そうに言うが、いくら肝を太く見せても凄絶な稜線に圧倒されるだけで、簡単な食事をとりながらも不安は隠せない。しかし、待ちに待った八峰、ここへの到来は二人を直ぐに一本のザイルで結んだ。

Ⅰ峰への往復は時間がかかりそうなので断念してⅢ峰への稜線に踏み出した。傾斜はさしてない。一歩一歩ステップを踏み固めながらコンティニアスで進んだ。右には白馬を始めとする後立山の山々が、左には剱の主峰から落ちている源次郎を眺めることができるが、目は常に足許に固定されているので山の体臭は全身で受けるより外ないのだ。Ⅲ峰の下りは安全を期してハイマツを掘り出してアプザイレンにて下った。

Ⅱ峰で我々を驚かした団子状の雪庇もさして危険も無く、あるいは長次郎側に、あるいは三ノ窓側の斜面にルートをとった。三ノ窓側に出ている雪庇は最後の降雪の時に形成されたもので、それ以前の雪庇は長次郎側にも出ている。その中間の断層にトップが落ち込むことしきり。握りしめるザイルがその度に激しく緊張する。

Ⅳ峰の下りもハイマツ利用のアプザイレンで乗り切った。もうⅤ峰はすぐそばであった。我々が苦しめられたのは前述の雪庇の不安定な断層と、各ピークの上に乗っかった巨大なブロック状の積雪であり、それを切り崩し乗り越えるのには微妙なバランスが必要だ。Ⅴ峰に着いたのが10時少し過ぎで夏季と同じ平坦なピークであったが、アプザイレンで直接ⅤⅥのコルに下降するにはザイルが不足であるので、長次郎側をからんで下ることにする。

練木がトップに立ち30㍍ワンピッチの辺りで岩角に打ち残されたハーケンを見つけそのままジッヘルピンに拝借する。アップザイレン15㍍、更にⅤ峰の腹を捲き気味に15㍍下り、偶然夏に使うアップザイレン用の太いハイマツの根を発見した。ここから一気にⅤⅥのコルに続く雪渓に向かい雪のルンゼを後ろ向きにステップを切って下った。この下降に二時間を費やし、ⅤⅥのコルに立ってほっと上を見上げると剱のACから合図があった。
今日のアタックを予想してC2の玉田信之、中村直倫、黒沢慶一、今村久男の四人が撤収準備に登って来たのだ。望遠鏡で眺められていると思うと、苦し気な顔もできず愛嬌たっぷりに手を振って応える。

今まで緊張の連続で気付かなかったが、朝焼けは正直に天候の悪化を告げた。後立山の山々に襲い掛かる茶褐色の霧。そしてざわめき立つ剱の頂上付近もやがてガスが去来しはじめた。簡単に昼食をとり13時20分コルに出た。
Ⅵ峰の登りは夏道通りコルからすぐ右手の細いガリーに入り、30㍍でザッテルに出る。雪はしまっていて完全なアイゼンワークである。ここで殆ど垂直な雪の壁にぶつかり何度かトップを交替して乗り切ろうとしたが、ジッヘルピンがなく一時間半ばかり難渋し、岩を掘り出してハーケンを打ち、身体を乗り出すように右の岩壁をトラバースした。

ここからⅥ峰までは雪が腐っていて足を蹴りこむとザラメの層を踏み抜いて一番底の岩のスラブに突き当たる。時々ハイマツが顔を出して雪崩の心配はない。不安定なスノーフェイスの登高には雪の技術のみが要求され、ピッケルを根元までも刺し、垂直にかける力のみに信頼がおけるだけで、我々は事実上ザイルを結びあっているに過ぎなかった。

16時30分待望のⅥ峰のピークに立った。この頃から小雪がちらつき始め、視界は50㍍ほどに狭まっていった。姿を見せぬ雷鳥の激しい羽音と鳴き声が風の音に混じって聞こえる。

Ⅵ峰から上は再びナイフリッジである。下半の雪庇は主として三ノ窓側であったが、ここから上は長次郎側にぐんと胸を突き出している。相変わらず不安定な雪庇の断層がますます視界の利かなくなった我々を脅かす。

Ⅵ峰のアップザイレンの下りは、岩と雪の混合でハーケンのリスがなく、やっとの思いで岩と岩の間に打ち込んだ横リスも僅かだが横揺れがして、薄氷を踏む思いで降り立った。二人の長く伸びたヒゲや眉毛には白い氷柱が下がってくる。

天候はますます悪く、北西の風は横殴りに叩きつけてくる。暮色も迫り視界は5㍍前後となった。足もとの雪の稜線も形がよく見えない。トップは雪稜にピッケルのツアッケでシュプールを描きつつルートをさぐった。ルートは殆ど三ノ窓側にとりトラバース気味にⅦ峰を乗り切る。あとはⅧ峰の登りだけだ。岩は影をひそめ稜線は雪で覆われていた。ジッヘル用のピッケルも役に立たぬので、ザイルへの信頼はまったく捨て、滑落した場合には反対側の谷に確保者は身を投げるジッヘルを申し合わせた。時間は無言のうちに過ぎていく。

19時、我々は主稜線に飛び出した。思わず緊張がとけて抱き合った二人の体は、凍てついた雪で棒のように突っ張っていた。
既に垂れこめた闇は我々をAC帰営にと急がせる。30分ほど懐中電灯でルートを探ったが危険を感じたので、八峰の頭でビバークと決めた。靴下を履き替え、カモシカの尻皮を敷いてツェルトをかぶれば天幕よりも気が楽だと、強がりを言う。吹雪は相変わらず酷いが、ローソクの火と豊富な食糧が今まで経て来た苦しさを吹き飛ばしてくれる。
AC剣岳頂上(4時50分)―ⅠⅡのコル(7時30分)―ⅤⅥのコル(12時30分)―Ⅵ峰(16時30分)―八峰の頭(19時30分)―ビバーク(20時)

三月十六日(快晴)
一夜明ければ昨日の吹雪は嘘のようである。ツェルトの布から透かして見えた濃紺の空は新鮮で明るかった。八峰の頭で身体を乗り出すようにして「ヤッホー」を送るとACの黒い人影が振る手が風車のようだ。六時半に凍ったツェルトを背中にくくりつけて八峰の頭から雪の小ルンゼを直接長次郎に下降し、池ノ谷のコルに出る。昨日二人の登った八峰の稜線に鮮やかなトレースがキラキラと輝いている。「さようなら」、この一瞬のために登って来たようなものだ。

午後、源次郎を断念してBHに帰ることに決め、昨日野村勉と交替した玉田信之と黒沢慶一の先導でC2に帰った。予報では明日頃から本格的に悪くなるだろうという。

三月十七日(曇り、後小雨)
C2を撤収して一気にBHに下る。三月七日、はじめてトレースづけした早月尾根はあたかも銀座通りの観を呈して登山者が後を絶たない。雪も連日の快晴で溶け、地肌が見え、春の息吹が木々の芽に感じられる。
BHに帰るまで約25日を予定していたのが、十日間であっけなく終わった今、馬場島への道のりもむせかえるような喜びはない。

(三月十八日~三月十九日は省略)
1958(昭和33)年記

©「岩と雪 1958年 秋第2号」より転載

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