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「恋愛」というこの不可解な現象について一体誰が能弁に語れるというのか

「異性」という言葉を耳にするたびに私を襲うモヤモヤの正体が少し分かった気がする。「性愛」にまつわる「われわれ」の語りの大部分は、「男/女」という二項対立図式なくしてはまったく成立しないのだ。たとえば「男同士の性行為」においてさえ、「男側(タチ)」「女側(ネコ)」という区分が存在している。女同士のイチャイチャプレイでも「男役」と「女役」がある。「われわれ」の認知様式にとって「男」と「女」の区別法はほとんど反射的に適用される種類のものらしい。一見して「性別」の分かりにくい人を街で見かけたときのあの何とも言えない好奇心の正体は、たぶんそんな認知様式に由来するものなのだ。「男/女」認知とは一切無縁の「文化」を、私は想像することが出来ない。

中国思想の陰陽説は昔から男女のそれに対応させられるし、松や岩が二つ並んでいればすぐに夫婦松とか夫婦岩とかになる。各地の民族に伝承される「神々」にもたいがい男女の別がある。「しょせんこの世は男と女」といった俗謡的文句はきっとどこの国のどこの地域にも見当たるだろう。私は「女性的な優しさを感じさせる童顔の青年に惚れやすいのよ」なんていつも口癖のように話すが、そんなたわいもないエロス語りも「男/女」の前提図式なしには伝達できないし理解も出来ない。「中性的」「両性具有」「おかま」「ユニセックス」といった言葉なども、「男/女」の区別を踏まえてようやく概念としての厚みを獲得できる。

仮にこのまま「性的多様性」についての認知が進み、現在の「ジェンダーロール」に起因する「不公正」がほぼ解消した後でも、「男/女」といった図式的認知だけは人々の意識から消えそうもない。そんな気が強くする。「妊娠する性/妊娠しない性」「ペニスを持たない性/ペニスを持つ性」「射精する性/射精される性」という区分から人はついに自由になれないのだろうか。

私がそんなことを考えさせられたのは、赤坂真理の『愛と性と存在のはなし』(NHK出版新書)を読みながらだった。この本は私にはひどく清新でパンチ力のある一冊でした。本書のなかで著者は、「性的マイノリティ」をめぐる公共的言説にありがちな「単純化傾向」について、いろんな角度から疑義を投げかける。人間ってもっと複雑で分かりにくいものじゃない?というわけだ。そしていつの間にか、人間誰もがけっきょくは「性的少数者」であり誰もがそれに由来する「存在の困難」を抱えて生きているのだと、そんな遠大な問題にまで突入してしまう(とちゅう上野千鶴子による例の東大祝辞について苦言が漏らされたり、Queenのフレディ・マーキュリーなんかも引き合いに出されたりして、最後まで論が間延びすることはなかった)。

いったい「セクシャリティ」くらい掴み所を欠いた鵺的対象は他に少ない。

「性同一性障害」「ホモセクシャル」「ヘテロセクシャル」などの出来合いの用語だけで「人間の性」を分類・記述できると思ったら、大間違いだ。なんでもかんでも体系化してみたくなる知的情熱は分からなくもないし、学問の便宜上「個別的・偶発的な要素」をある程度無視したほうが良い事情も分かるつもりだ。

でも個々人の実際生活にあっては、そうしたノイズ的な「傍から見れば細かい特性」こそが当人を当人たらしめるのであり、それこそが当人の悩みの根底を成している場合が多い。その伝達しがたい部分が捨象されるなかで、「人間の性愛」は「既成の論理の枠」に押し込められてしまい、それに基づいた紋切り型の公共解釈が一人歩きしてしまうのだ。

いっぱんに男は「思春期」の辺りで髭が生え始め声が変わり、女は乳房が発達し月経がはじまる、と語られる。いわゆる「第二次性徴」だ。「疾患」や「発達の遅れ」などによる「例外」も多くあるとはいえ、おおむね「人間の体の成長」にまつわる保健体育的な語りは、「統計的な事実」に即しているといっていい。「平均」や「標準」とされるモデルもおおむねそのような「事実」から導き出されている。

じゃあ「人を好きになる」とはどういうことなのか。「恋愛」とはどんな現象なのか。これは「後天的な経験・学習などを経ないのに動物が有している行動様式」すなわち「本能」なのだろうか。それとも人間の社会的関係のなかで徐々に育まれる対人行動様式なのだろうか

精巣は「放っといても自然に」精子を作るし、朝勃ちや夢精も「気が付いたら既に」起こっている(少なくとも私の場合は)。このような人体機能の働きは「後天的学習」を必要とすることではない。個人的意志や努力とは「ほとんど無関係」に起こる。もしそれらの現象が起こらないとすれば、きっとそれはその人の内臓機能等に「原因」があるからだろう。

しかし「人を好きになる」という、この「内的現象」は一体何なのだろう。どこからどう手を付けていいのかわからないくらい茫漠とした何かではないか。地上の物凄い数の人間がそれを「経験」しているらしいにもかかわらず、それについていざ語ろうとするとにわかに訥弁と化してしまう。アウグスティヌスの言い草を借りて、「いったい恋愛とは何でしょうか。だれも私にたずねないとき私は知っています。たずねられて説明しようとすると、知らないのです」と言うしかなさそうではないか。

それは先天的な生物現象なのか。「心的現象」と言っていいのか。そして最終的には「恋愛」に関する「心の動き」をぜんぶ解剖学的なタームで説明することも可能なのだろうか。「好きな異性を見るとその人の瞳孔が拡大する」みたいな通俗脳科学の好みそうな話題にも一理あるというのか。まったく私にはわからない。

このように「恋愛」というものは、「問い」として主題化されることさえどこか全力で拒否しているように思える。問いを立てるが早いかそもそも何が問題なのかさえ見失ってしまう。古来様々の文人・哲人も「恋とは何か」と問うてきたが結論らしい結論はついに見出せなかった。「他者に魅了されたときのあの狂おしい気持ち」の本体を突き止められなかった。だからなのか、プラトンは「エロス」の衝動を説明にするのに神話を持ち出すしか術がなかった(『饗宴』『パイドロス』)。ややロマン的に気負って言うなら、それは人類に残された最後の謎なのだろうか。私などの歯が立つ道理はないわけです。

出直してきます。

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