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「子供」も「老人」も嫌われてしまう世の中

ああ上階のガキの足音がうるさい。階段は静かに下りろよ。廊下くらい歩けよ。床の上でそうやってジャンプするなよ。脳が反射的に「嫌がらせ」と解釈してしまうじゃないか。そこは大地ではないのだ。それなりに穏やかだった海にとつぜん荒波を立てるようなことはやめろ。もう本当に止めてくれ。あらためて私は問いたい。ガキというのはなぜどうしてこうも「無神経」なのだろうか。あるいはガキの傍にいつもいる「保護者」はなぜどうしてこの「無神経」を許容しているのだろうか。ガキどものそうした暴力的な騒々しさにすっかり順応してしまっているのだろうか。「おお、我が子よ、そうやって体重を踵にかけながら走るのは近隣の大迷惑になりかねない。階下の神経質な貧乏人はさぞ御立腹ですよ。理想の摺り足をこの動画で覚えましょうね」となぜユーチューブで教育しないのだろうか。ガキにとって静かに移動することはそんなに難しいことなのか?ガキは音を立てずには移動できない怪獣なのか?

聴覚を有する生きた人間が近隣に生活している事実をまた思い出させないといけないのだろうか。それにしても、大島渚の言い草ではないが、私たちはどうしてもっと怒らないのか。世の騒音に人はどうしてもっと激しく真剣に怒らないのか。怒っていることを伝えないと問題そのものが無いものとされてしまう恐れがありはしないか。音問題はまぎれもなく生命侵害問題なのだ。それは「軽犯罪」に類する。ガキだろうが何だろうが、他者の心的平穏をいたずらに害することは「してはならない」。これだけは「確か」ではないのか?そうでなくても人の世は生きにくい。これ以上他者に苦しみを与えるのは「よくない」。そうだろう?少なくとも私はそう「信じている」。これが私の懐疑精神が耐えうるギリギリの「モラル」だ。「超越的視点」を設定すればそんなものはすべて「虚構」なのだけど、こういう虚構を共有しているふりくらいはしようではないか。なんども私は繰り返すけれども、人の世はとてつもなく生きにくい。「他者への配慮」が一定量必要な理由は、この一点だけでも充分すぎる。

ガキがことさら鬱陶しがられる「世の中」はたぶんロクなものではない。幼稚園児の遊び声がやかましいとクレームのつく「社会」はたぶんロクなものじゃない。でもガキがなぜそこまで嫌われてしまうのかを根本から問い直さないと、この問題の核心にはなかなか到れない。社会学的にもこの観点はきっと重要です。「子供が嫌いなんてありえない!誰だって最初は子供だったんだよ!人としてどうかしてる!」なんていう優等生じみた物言いにいい加減私はウンザリしているのだ。きっと誰もがウンザリしているのだ。そうだよね?どんな「正論」も、ああまた言ってるよと思われたら最後なのです。言い古され飽きられてしまった決まり文句はもはや誰の心にも響かない。目から鱗を落剥させる迫力は永久に持ちえない。そんな言葉をストックフレーズと呼ぶわけだ。

これから文学をやろうという人間は手始めにいま現にある「嫌悪感」と対峙し、真面目にどこまでも分析すべきだろう。私は、日頃生きている中の「何となく嫌だな」もしくは「ぜったいに嫌だ」という否定感情に、ことのほか敏感だ。たとえばコンビニで少年漫画雑誌を読みふけっている大学生をみかけると「何となく嫌だな」と思うし、スーパーなんかのお父さんお母さんの似顔絵コーナーを通過する際も「何となく嫌だな」と感じる。安倍晋三の喋り方も「何となく嫌だ」し、近距離なのに声のやや大きい知人と話しているときも「何となく嫌だ」。自分の犬猫を溺愛する一方で豚の肉や牛の肉は平気で食う人間に対しては「お前なんかぜったいに嫌だ!豚に食われて死ね!」と吐き捨てたくなるし、フェイスブック等のプロフィール画像に自分の子供の画像を使用する人間に対しても「ああ嫌だ!子供はお前の自己愛の道具かよ。バキュームカーに吸われて死んじまえ!」と叫びたくなる。

「理由」は明快には語れずとも確かに存在しているそうした嫌悪感情の客体化プロセスにこそ、「人間学的知見」が潜んでいる。そんな気が強くする。おそれずこわがらずに直視しようじゃないか。

ところで私は「子供だからしょうがない」というセリフをことさら忌み嫌っています。なぜだろうか。自分でも詳らかに解析しえないのだけど、こういうセリフがなにかにつけて免罪符のように通用してしまっている現況に反感があるのはたしかだ。もとより私は「しょうがない」という諦めの作法が嫌いなのだ。「しょうがない」の一言で複雑かつ深刻な問題を片づけようとするのは知性の怠慢以外の何ものでもない。この世に生まれてしまったからにはしょうがない、そういうルールなんだからしょうがない、国が決めたことなのだからしょうがない、女だからしょうがない。なにかにつけてこの「しょうがない論法」は誠意ある議論をさらりと断ち切ってしまう。世に広く行き渡っている無数の権力装置はこの「しょうがない」によってずっと黙認されてきたし、今も黙認されている。どんな理不尽もこの「しょうがない」の一言で淡白に処理されてしまう。「たわけたこと言うな、しょうがないことなんかあるものか、俺はそんなものは認めないからな」という態度こそ「知性ある人間」には必要なのだ。

子供だからしょうがない、なんて物言いがこれから通用すると思うなよ。「子供はうるさいものだ、だから我慢してくれ」。馬鹿いえ。「子供はわがままなものだ、だから大目に見てやってくれ」。冗談ぬかせ。この「だから」はクセモノだ。言葉の詐術だ。この「だから」の研究なくして私の、ひいては「人々」の子供嫌悪の正体は解明され得ないだろう。

自分もかつてこんなに無神経で罪深い小動物だったことに自尊心が耐えられない、という暴発寸前の自己嫌悪も多分にあるようだ。うん、そんな気がする。そんな行き場のない自己嫌悪が年々濃縮され、全世界の人間にぶつけないと気が済まなくなっているのかしら。こうしているいまもガキは地上に生まれている。きっとこれからも増え続けていく。総じて大人というのは体の大きくなったガキに過ぎないから地上はガキで満ちあふれていることになる。私の良識のささやくところでは「多すぎるものと大きすぎるものはことごとく悪である」。だから自分の厭世的人間嫌悪は必然のなりゆきなのだ。この「だから」もクセモノですね。もう忌まわしいガキの話なんか止そう。

『嫌老社会を超えて』(2015)を書いた五木寛之は、総人口に占める「老人」の割合が伸びるなかで「老人」がなんとなく嫌われているらしいこと、しかもこれからますます嫌われていくだろうことを、その作家的直観力によって鋭く予感している。腐っても鯛というべきか。いやすみません。五木氏のエッセイ集は学生時代よく読みましたよ。小説は全然好きじゃないけど。それにしてもこの「嫌老社会」という身も蓋も無いワーディングはどうですか。この語感の生々しさは何なんだ。いまではすっかりホトケイジリ系文化人の範疇に収まっているたたずまいの氏ではあるけれど、氏の根底にあるあの真っ当なペシミズムに対して私は昔から深い共感と敬意を抱いているのです。私は「人生」なんてものは地獄そのものだと了解しているので、そういう了解を暗黙裡に共有できないような人とはあまり話が噛みあわない。

だいたい生きる勇気だとか家族愛だとか夫婦愛なんかを高らかに謳い上げるハートウォーミング系統の読み物はどうしても手に取る気になれない。それはそれで一旦読みだせば「感涙にむせぶ」なんてことにもなりかねないのだが、それは単に著者の力量が勝っているだけの話であり、個人的嗜好としてはやはり救いのまったく無いグロテスクな情念の渦巻くものに特化している。

誰でもいいからヘラヘラした顔面を殴打して辺り一面を鼻血だらけにしてやりたいことがたまにあります。そんな衝動は月に二回あるかないかだけど、もしそんな衝動のさなかに例の糞ガキどものドンドンガンガンが到来したらどうしよう。絞め殺したくなるかしら。でも安心したまえ。いままでもこうやって文章に書き綴ることで私は「この名状しがたい怒り」を飼い慣らしてきた。いったいに怒りをいちいち暴力化させていたらこの市民社会はすぐさまホッブス的自然状態に成り果てる。肉体的にも経済的にも弱者の私は一日だって生きられない。顔面を殴打されて鼻骨を折られるのはむしろ私の方だ。

話を戻して、「老人本」とでも呼ぶしかない巨大ジャンルについて、最後に一言申したい。老いてこそ人生だの、不良老人のすすめだの、シニア一人旅だの、孫に愛される方法だの、いったい出版社はどれくらい高齢者層をターゲットにすれば気が済むんだよ。御老人に媚びを売ってんじゃねーよ、気持ちが悪い。もっと真剣な本を出す気はないのかよ。老いることに伴う不都合な真実を淡々仮借なく綴った本がもっと多くあってもいいのではないか。

「老人本」のカテゴリーはまことに雑多である。根拠の薄い認知症対策本もあれば、老後の資産運用を指南する「人生設計本」もある。新しい趣味を見付けようと余計なお世話を焼きまくるハウツー本もあれば、年を取ることがいかに素敵なことかを教え諭す訳知り顔の人生読本もある(そんなに老齢人生が楽しければつべこべいわずに日々をエンジョイしなよと思うのは私だけですか。こんな見え透いた人生美学の押し売りに感化される老人なんかいったいどこにあるのだろうかね。ところで老人の「人生」を主題に据えた読み物として私は『楢山節考』を推したい)。

もっと書きたい事あるけどくたびれたのでやめます。そろそろオナニーしてお酒買ってこないと阪神巨人戦に間に合わない。私は俗人だからプロ野球が好きなのです。弱小球団阪神タイガースの優勝をいちおうは見届けたい。いつかここでも論じるつもりだが、野球ファンというのは概して馬鹿でおめでたい。とりわけて阪神ファンはおめでたい。ひいきのチームが勝ったところで「だから何なんだ」と言われたらおしまいなのに、試合のたびにいつも本気で一喜一憂できる。笑いたいなら笑え。どうせみな狂人なのだからね。

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