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誕生日。なにがめでたい

景気付けに、ささやかな愚痴から入ろう。

この頃なにがムカつくかって、YouTubeなんかで「祝・登録者2000人突破」とか自分から盛り上がっている奴ら。そりゃあはお前は広告収入とかあるから嬉しいかも知れんけど、ひとりびとりの視聴者にとってはそんなのどうでもいい数字だから、裏でこっそり一人で祝ってくれよと毎回思う。こういう恥知らずな無邪気さ、多くないですか。結婚披露宴での花嫁が親に手紙を読みながら号泣するのを見せられている感じ。周りとの温度差がすごいあの感じ。ちょっと違うか。

ニュースサイトなんかに多い、あの「続きを読む」のボタン。もしその記事をほんとうに読ませたいなら、もったいぶらずに素直に読ませた方が絶対にいい。だって読者は読むためにそこに来たんだから。なんで一ページに収まる記事を五ページとかに分ける必要あるんだよ。講談かよ。閲覧数増やすためなのか広告を誤ってクリックさせるためなのか分からんけど、ちと無神経過ぎやしませんか。あのボタンの設置された記事をみんなでボイコットすれば、いつか無くなるに相違ない。ネットの領域に限らず、ああいう分けの分からない小細工は生活世界のいたるところにあるんですね。困ったことです。

そういえば、このごろ自転車のLEDライトがまぶし過ぎる。ぜったいまぶし過ぎる。クルマの無神経なハイビームとほとんど変わらないレベルですよ。光の強さに因るのか、角度に因るのか知らないけど、あの眩しさは邪悪といっていい。夜中の真っ暗な道であのライトを食らうと眼がつぶれそうになる。お前らいい加減にしろ、と怒鳴っているころにはもう通り過ぎてしまっているし。こういう無神経さは設計思想云々のまえに想像力の欠如以外のなにものでもないね。いつか真実ムカついて蹴倒しそうである。

大きな駅などにによくあるあの無意味で醜いオブジェ、変形ベンチなんかを「排除アート」と呼ぶらしいが、あんなものはアートじゃなくてただのゴミだから出来るだけみんなで協力して破壊しよう。私は通りかかるたびに唾を吐きたくなる。自由に寝転がれる場所さえ存在しない都市なんか木端微塵になったほうがいいのだ。

ひそかに惚れている男が外でスマホばかり見て歩いていたら、恋心も一瞬で覚めに違いない。そうやって「周りの人々」に同一化することに平気な神経は、「哲学的感性」とは最も程遠いものだ。「こいつらスマホ画面ばかり見ていて気持ち悪いな。いくらなんでもこんだけ集団でスマホばかり見てたら狂気の光景だよな。こいつらの行動様式を模倣するのは止そう。一緒だと思われたくない。眼を閉じて思索でもしようか」とかいう痩せ我慢的非同一化リアクションを起こせる人間の方に私は魅力を感じてしまう。私は「流されない人間を無理に演じられる男」が好きみたいだ。河島英吾の「時代おくれ」みたいな。

自分を客体化して突き放すためにも、ほんとうは毎日欠かさず書きたいのだけど、体力、というか作文的知力がこのごろ衰弱してきているので、もっぱら本ばかり読んで過ごしている。というよりいったん書き出すと、自分の文章のお粗末さにすぐさま失望してイライラや劣等感情が募る一方になって、すこぶる気分を害してしまう。喉まで出かかっている単語が出て来ないときのあの射精寸止め感もめっちゃ嫌いだ。学の乏しさや頭の弱さをそんな形で実感したくないのだ。

なによりも嫌なのは、私の生活半径や交友関係の狭さを思い知ることだ。私には、バックパックで世界一周旅行をしたとかいうようないかにも「青年」らしいこれ見よがしの経験談もなければ、外国の武装組織に人質にとられたとかいう壮絶なる経験談もない。大都会の一流広告代理店でバリバリ仕事をこなしてるわけでもなければ、北海道で広大な農場を営んでいるわけでもない。聞く者の魂を躍動させる生きた経験談を私は誰にも提供することが出来ない。私は今更ながらこのことに深く傷ついている。「俺はもっと激しく華やかに生きることが出来たのでないのか、もうこれからの人生は惰性で続いていくだけではないのか、なんて惨めなんだ」という悔恨と失望の毒針に毎晩チクチク刺されている。

とって、書くに値するほどの悲劇的人生や貧困生活を送ってきたわけでもない。いまげんざいたしかに貧乏ではあるけれど、野宿や犯罪を強いられるほどの極端の貧乏ではないし、もとをたどれば身から出た錆、あるいみ望んで選んだ生活でもある。つまりこんにちではどこにでもいる人間恐怖症患者に過ぎない。

私はいつもいつも不愉快でいる。眼が覚めると、今日も「生存」のルーティンを強いられるのか、という溜息が真っ先に出る。ぜんぜん活き活きとしていない。人と話しているときも眼がドロンとしていると思う。お酒をしたたか飲んで泥酔の奈落にへばりついているときでさえ宿屙のような鬱屈は消えない。ここじゃないどこかへ連れて行け、という不満感が払拭されない。私以外の人たちはまいにち楽しく生きているのかしら。明日が来るのを心待ちにしているのかしら。だとすれば、どうすればそうやって活き活きと毎日を暮らすことが出来るのか、そして「他者」や「世間」を恐れずに生きられるのか、教えを請いたいね。私のこの無気力症ばかりはもう治療不可能だろうけど。

学生時代、刑務所の独房でひたすら本を耽読している自分をうすぼんやりと想像しては悦に浸っていたものだけど、今の自分はそれに近い暮らしをしている(よく考えたら好きな時にオナニーや食事もできない刑務所暮らしは地獄だ。だからあそこには絶対に行かない)。夢は叶うものだとしみじみ思う。だから若者よ、夢を信じろ。若者でなくても、夢を信じろ。

上階の無神経アホ家族の足音や夜十時以降の洗濯機騒音も癇に障るので来年の春にはここを越そうと思っている。いいかげん他人の出す暴力騒音からは解放されたいのだ。迫害妄想をこれいじょう刺激されるといくら温厚の私でもついに何をしでかすか分からない。家賃と「民度」は比例するという「ぶっちゃけ論」も巷では盛んで、それはそれである程度首肯してもいいのだけど、家賃の高いところはそのぶん壁や天井の遮音性能が優れているから他人の無神経騒音が問題にならないという観点も大事だ。家賃収入を効率よく得たいだけの賃貸オーナーはだいたいにおいて実際に中で住む人間のことはほとんど考えていない。外観を綺麗に見せるための塗装や修繕には金を出すが、室内の防音対策にはほとんど関心を向けない。理由はごく単純。自分が住むわけじゃないから。そもそも「賃貸騒音」がいかに切実な問題となりうるかを、やつらは実感したことがない。せめて賃貸住宅における最低限の遮音・防音基準を制定しませんか。家賃二万円代だからといって他人の放屁音まで我慢しろというのはあんまりではありませんか。「賃貸騒音は人権問題に他ならない」という私のスタンスはいずれ世間の注目を集めるだろう(己惚れんな、マス搔き野郎)。

先月読んだもののなかでは、町田康『夫婦茶碗』、平川祐弘『漱石の師マードック先生』、車谷長吉『贋世捨人』、大塚英志『人身御供論』、伊丹十三『日本世間話大系』、古井由吉『辻』などが印象強かった。

佐藤愛子女史による『九十歳。なにがめでたい』も読んだ。しばらくまえに馬鹿みたいに大売れしていたのを思い出したからだ。「歯に衣着せぬ文筆芸」は相変わらずだけど、とりたてて新奇なところもない。こんなことをこの人はむかしから飽きるほど書いているよ、というのが率直の感想。なんでこんな本がそんなに売れたのか作者の私がいちばん戸惑っている、と増補版で彼女は書いていたが、それも尤もだ。でも九〇を超えてまともな原稿書けるのはすごいわ。ふつうはボケてて、文章など作れない。日常的に書く人はボケにくいとか、そんな話あるのかな。

読書人口のかなりの部分を「高齢者」が占める昨今にあっては、「近頃の若者は」式の〈怒り節〉や、「老いる意味」式の老人反省本が受けやすいのは明らかだ。労働現場を退いて久しい老人はにっちゅう暇なうえ、肉体の経年劣化による不自由のためにストレスや厭世観を強く抱きがちだから、鬱憤は溜まりに溜まっている。「言いたいことも言えない」という問題は反町隆史に限らずおよそあらゆる世代のあらゆる人間に共通していることだが、とりわけ他人の「援助」なり「善意」に大きく依存しなければ生きにくい高齢者にとって、この問題はよりいっそう切実である。現実の生きた老人の愚痴は、たとえば四代目鈴々舎馬風や人生幸朗のボヤキ芸のようにスッキリしたものではない(どっちも知らない人は動画サイトで見て)。ずっと陰湿かつ執拗で薄汚いもの、周囲の人間の心に害悪を及ぼさないではいられないものなのだ。私もこのまま年老いていくとそんな害悪を垂れ流しまくる老人になるのだろうな。え、もうここで垂れ流してるって?すみません。

また今度。

地球最後の日を願いつつ。

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