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「欲望模倣ゲーム」を降りたいが

中古で買ったパソコンでいま本文を書いているのだけど、苛立たされることがいちいち多い。店頭でいじってみて判明しなかった欠点が次々あらわになりつつある。タイピングは大部分身体的な位置記憶に依ってなされることだから、キーボードの配置がすこし変わるだけでも相当に苦労するし、ミスタッチのたびにイライラが募ってしまう。小指がエンターを押したつもりがとんでもないところに着地していたりする。なかでも、いわゆる「矢印キー」の場所を間違えやすい。だがそんな些末なことはいずれ慣れる部類のことだ。

それより問題なのは、目的のキーを打ってから画面に反映されるのにやや間の生じることで、これが重なると、もういい加減にしろとパソコンを壁に叩きつけたくなる。私は周囲世界が自分の思い通りにならないとすぐにカリカリしてしまうタチなのだ(だからほんらい特定の野球チームなど応援してはいけないのだ。いずれ必ず負けるのだから)。

だいたいにおいてこのパソコンは何かにつけて動作が遅い。なんでこの欠点をあからじめ見抜けなかったのかと、自分の節穴ぶりに呆れています。こんなストレスフルな状態で書かれた文章に精彩が生じるとはとても思えない(そうでなくても精彩を欠くのに)。どこの誰であれ文章の質は使う道具によってある程度は影響されてしまうものだ。一日の多くの時間を原稿執筆に費やす職業作家があれほど筆記用具にこだわっていたのは、単なる虚栄の為だけではない。

虚栄といえば、万年筆の広告や製品紹介記事などには「あの三島由紀夫も愛用したモンブラン」みたいな、いかにも権威借用調のものがよく目に付いて、「たかが文房具ではないぞ、こちとら伝統が違うのだ」といった並々ならぬ自負心がみなぎっている。「たかが文房具」という冷めた自意識なしには、こんな矜持も生まれないはずだ。ブランドの自己主張というのはいつもこんなに無邪気なものです。もっとも、自分の出身大学(学校ブランド)を謙遜風に誇示したがる人たちに特有なあの垢ぬけない無邪気さよりはずっとマシである。

市場に流通している商品が喚起する「ブランドイメージ」なんてものはほとんどが幻想(虚構)によって形作られている。装飾品として今も多くの人間に欲望されているダイヤモンドにしても、「ダイヤモンドは永遠の輝き(A Diamond is Forever)」といったキャッチコピーをはじめとしたあの世界的広報戦略がなければ、これほど高い価格で取り引きされることはなかった。ダイヤモンドの稀少性イメージそのものが多分に共同幻想に支えられているのだ(もちろんそこにはかつて一大シンジケートをなしていたデビアス社による巧みな生産・流通調整もあったのだろうけど)。

「人間は〈他者の欲望〉を模倣する」みたいなことを、「現代思想」の界隈ではよく耳にする。より卑近の例に引き寄せていうなら、自分がゴミと思うものでも他人が欲しがると急に惜しくなる、あの感覚に通じる何かだろうか。「欲望の対象」は、他者との交わりのなかでしか形成されないし、そのなかでしか認知されない。人は最初から最後まで「独立した欲望の主体」ではありえない。「私はあれを欲する」というふうな欲望の志向性は、はじめからすでに模倣されている志向性であり、にもかかわらず「私」にはやはり「欲望の主体」という感覚が根強くある。「最新モデルのiPhone」を欲望している人々は、その高機能やデザインに「純粋」に惹かれているつもりかもしれない。でもそこにはまず「他者に欲望されている〈それ〉を所有し、他者に欲望される私になりたい」という欲望が抜きがたくあるのだ。「他者もまた〈それ〉を欲望しているので、きっと自分を模倣したがるだろう」という前提なしには、このような欲望は生じえないはずなのだ。

およそ広告というものはそのような「欲望」を強化的に再生産しようと欲する市場戦略なのである。大なり小なり「〈それ〉を所有・消費しているあなたはいままでのあなたよりもずっと素敵ですよ」とささやき続けている。「〈それ〉を所有・消費しているあなたは他人からもっと注目されもっと欲望されますよ」と。

「最新モデルのiPhoneを所有している私」が「最新モデルのiPhoneを所有していない私」よりも「素敵」なのは、前者が後者よりも一層「欲望の客体」になろうと「努力」しているからだ。このような「努力」をうまずたゆまずに続けられる人間を、高度記号消費社会はこよなく愛する。優遇する。英雄視さえ辞さない。今の大部分の日本人はただ生きているだけで、そうした「顕示的努力」をのべつ強いられている。様々の角度から「いまよりももっとナイスな自分になれ」と呪文をかけられている。より高い教育を受け、より上質な衣を身にまとい、よりハイスペックなスマホを所有し、より旨いものを食い、より高額な車に乗り、より美しい人間になり、より違った職場を求め、より魅力のある配偶者を得て、より高家賃の部屋を借りるように。それこそが「リアルに充実した人生」なのだ、と。だからもっと上を目指せ、金を浪費しろ、それこそが誰の目にも明らかな「成功」なのだ(お前たち大衆がもっとこの欲望模倣合戦に参加しないと今日の高度記号消費社会は一日だって維持されないのだ)。

他者にうらやましがられる人間になれという、この気忙しい圧力を感じない日はない。それはたぶん私だけではないと思う。私は悟りを得て久しいような世捨て人ではないから、種々の欲望のために心はいつも騒々しい。いったい、この欲望模倣ゲームを完全に降りることなど、並みの人間に出来るのだろうか。ことによると「この欲望模倣ゲームを降りている私」になろうと欲望することで私は、もう一段上の欲望模倣ゲームに絡み取られているのではないのか。つまりけっきょく私は「ものを欲しがらない私」として周囲に尊敬され、模倣されたいだけではないのか。してみるとこれくらい滑稽で凡庸な身振りは他にない。恥ずかしいですね。所有欲なんかほとんど捨てました、と涼し気に吹聴したがる欲望こそ最も俗人的で厄介なものなのだ。ところでさいきんの堀江貴文はそのような欲望を色々の場所でしつこいくらいに表明している。ああもうやめてください。その手の身振りはぜんぜん新しくないし、すこしもクールではありません。

本当はこの辺から本題に入るつもりだったのだけど、やがてパソコン酔いがはじまりそうなので、今日はここらで終わります。カップヌードルのチリトマト味を賞味して寝ますわ。

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