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卒業式、不安と感謝の1日を思う。

3月11日は娘の中学校の卒業式だった。

たった2ヶ月しか授業に参加できなかった3年間。義務教育を終えてないのに、この日を限りに中学を卒業しなくてはならない。

正直なところ、親の私は不安でたまらない気持ちでこの日を迎えた。

10年前のこの日、大きな地震が東日本を揺るがした。急遽保育園に娘を、小学校に息子を迎えに行ったのだった。夜はまだ電気はつかなかったが、ガスコンロは使用できたので、お湯を沸かしてカップラーメンをすすりながら、命あって子どもたち2人とこの夜に家にいられた幸運に感謝せざるを得ない日だった。そんな風に10年前のことを少し思い出した。

それでも今日は、3年間の娘の苦しさ、彼女に寄り添って試行錯誤しながら歩んできた自分の苦しさを、心の中で反芻せずにはいられなかった。過去の幸運な出来事に感謝はできても、どうしても今の現在の感情に支配されてしまうものだ。

ちょうど娘が不登校になった中1の6月に、彼女は1回目のヘアドネーションをしていた。それは彼女自身が調べて決めたことで、51cmの真っ直ぐで見事な黒髪を、誰かの役にたてて欲しい、と寄付したのだった。

それから2年10ヶ月ほど経て、ようやく寄付できる最短の長さ、31cmの髪を確保できるまで伸ばせたので、2回目のヘアドネーションをした。殆ど初めてと言っていい娘のショートカットは、私の若干の不安に反してとてもよく似合っており、大人っぽく、とてもかっこよく見えた。

3年間、苦しかった期間に伸ばし続けていた髪を手放したことで、彼女は表情も気持ちも晴れやかに見えた。

少しづつ彼女の笑顔が増え、オンラインの高校への入学を決めたことは本当に嬉しかった。ただ、義務教育を受けていない期間を、さらに高校の過程を含めてこれから取り戻さなくてはならないのかと思うと、このまま中学校を卒業してしまうことは、裸で放り出されるような気持ちを拭えなかった。

そんな心境のまま迎えた卒業式。

娘自身は卒業式を見たいけれど、みんなと一緒には参加できないとのことで、先生のご配慮により会場の体育館の2階の後ろからそっと式を見守った。

例年と違い、来賓も下級生も不在。保護者と3年生、先生たちだけの卒業式。それでも3年生の合唱はとても美しかったし、代表生徒のメッセージも、校長先生の言葉も心温まるものだった。式は滞りなく終わり、私たちは他の生徒と保護者が帰り出す前に2人だけで帰宅した。

数日前に娘は担任の先生から ”当日は午後2時に校長室に来てね。卒業証書を渡すからさ”と言われていた。”ママも来るの?”  と聞かれたけど、私も先生方にはお世話になりまくったので、一言お礼を伝えたいと思い、再び娘と一緒に学校に足を運んだ。

昇降口に着くと、他にも卒業式に参加できなかったらしい子供たちと親が数組来ていた。そして数人の先生に校長室に誘われて行くと、校長室にはミニ卒業式の体で先生方が並び、花や校旗とともに設られ、私たち用の椅子が配置されていた。

私は単に、手早く校長先生から銘々に卒業証書が渡されるだけだと思っていたので、少なからず驚いた。

そして生徒6人、保護者6人が席につくと、不登校だった子供たちのためだけの、小さな卒業式が始まったのだった。

校長先生からのこの3年間それぞれに苦しい思いをして学校に行けなかった子供たちへの、そっと背中を優しく押すようなメッセージ。私はそれを聞きながら、胸が一杯になった。おそらく鼻の周りも紅潮していただろうから、マスクをしていて良かったと本当に思ったのだが、目頭が熱くなるのは止められなかった。

忙しい学校運営と教職業務の中、先生方はたった数名の生徒のために、いつからかこの小さな卒業式を始めてくれ、続けていてくれているのだ。

ただでさえ、昨年からのコロナ禍で先行きが見えない状況。教育の現場でも休校が続いた日々。誰もこの先が予測できない状況で生徒たちの学習の進度を調整し、イベントの開催有無を判断し、全生徒の心身の健康、感染対策など、先生方の負担の多さはどれほどだったかと思う。

その上で、学校に行けなかった子供たちとその保護者を、こういう形で労い、祝い、送り出してくれる配慮。誰もができることではないと思った。

正直なところ、息子が6年前にこの中学を卒業した時には、自分が多忙すぎたと言うこともあったけれど、中学校に対してさほど感慨も抱かず、先生たちのご苦労を慮ることもなく、義務教育の当然の権利だったとばかりに卒業式に参加していたと思う。

この3年間、娘とイレギュラーな道を辿ったことで、先生方は学校に行けない子供たちに、かなり多くのリソースを割いてケアしてくれていることを知った。

義務教育は決められたカリキュラムに乗っとって授業をこなすことだけではなく、生徒一人一人に寄り添うこと、精神的なケアと愛情を持って実行することが必要なのだと改めて体感した。

それは手間をかけ、時間をかけ、心を砕かなければできないことだ。

子ども達一人ひとりの未来を描いていなければ為し得ない事だ。

娘の担任の先生は毎週毎週、なんの用事もなくても

”プリントを渡したいから”  ”ちょっと話しようよ”  ”共同制作を手伝ってよ” 

などと用事を作って学校から足が長く遠のかないようにしてくれた。

毎週2年間、欠かすことなく。

その継続的なつながりが、この先生によって保たれていなければ、今日の卒業式にだって娘は行く気にはならなかっただろうと思う。

ミニ卒業式の後、適応教室の先生に

”こんな風にわざわざ卒業式を開いてくださって本当に感激しています。。”

とお伝えしたら

”いえいえ、もちろん当たり前の、普通のことですよ!”

と仰った。果たしてそうなのだろうか?

仕事だから、と割り切っていたら決してできないことでは無いだろうか。

少なくともこの卒業式は私にとって普通ではなくて、”とても特別なもの” だった。

"誰ひとり取り残さない" って、こういうことじゃないだろうか。

先生方が子供たちに、私たち親にこれだけの心遣いをして下さったこと、私は一生忘れない。その気持ちを込めてこれを書いておこうと思った。

親にはもちろん、普通のルートを歩めなかった子ども達の心に一生記憶に残ると思う。

これからも困難な時期があるかもしれないし、ふとした時や辛い状況にある時に、この日のことを思い出して欲しいと思う。

自分たち6人のためだけに開かれた卒業式のことを。

こうして通えなかった場所であっても、先生たちが心を砕いて、精一杯お祝いしてくれたことが、この先の、彼らの人生の支えになるといいなと思う。

きっと、卒業してからも、先生たちはぶらっと訪れた子ども達を暖かく迎え入れてくれるのだろう。

担任の先生は、学校の卒業式と別に3年生の時に担任したクラスの子供たち全てにオリジナルの卒業証書を生徒たちに渡していた。娘にそれを渡すとき、” 〇〇は221番目だからね!”と証書に書かれている通し番号を読み上げた。

先生の221番目の卒業生。
たった一つの番号を自分にもらえたことで、誰かの記憶に残る自分になったと言うことを感じただろうか。

校長室から出て校門に向かう私たちに、担任の先生が見送りに来てくれた。

外は雲一つない青空。今まで我慢していたのに "お母さんも頑張って下さいね”と先生から声をかけられ、色んな想いが溢れてもう涙が止められなかった。私は情けないことに返事もできず、俯いて、こくこくと頷くだけだった。

ちゃんと話したいことを言えなかったから、また改めてお礼に来ようと思う。

3年間を支えてくれた担任の先生、スクールカウンセラーの先生、個人授業担当の先生、適応教室の先生方、そしてご自身も不登校のお子さんがいると話してくれた校長先生、職員室を訪れた時、いつも気持ちよく対応して下さった先生方。

本当に有難うございました。感謝の気持ちを込めて。


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