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編集者・ミネシンゴさんの「!!!」——夢が絶たれても、絶望する必要がなかった理由

自分のなりたい職業に就き、活躍する。10代の頃、そんな未来をぼんやりと思い描いていた人は多いでしょう。しかし実際は、望み通りの職業に就いて活躍し続けられる人のほうが少ないように思えます。
なりたい職業になれなかった、あるいは一度はなったものの続けられなかった。そんな経験を「失敗」だと感じる瞬間がある、という方もいるかもしれません。しかし、本当にその経験は「失敗」なのでしょうか。思い描いた職業とは異なる道を歩むことになったとしても、それを「失敗」にしない生き方があるとしたら——?

10代で美容師を志し、20代の間に2度もその夢を奪われた人がいます。三浦半島最南端の町、神奈川県三浦市三崎に拠点を置き、夫婦で出版社を営むミネシンゴさん。美容文藝誌『髪とアタシ』のほか、こだわりの雑誌・書籍・Webメディアをつくる編集者です。その活躍は出版業にとどまらず、蔵書室カフェ「本と屯」、美容室「花暮美容室」、滞在型シェアオフィス「TEHAKU」など、三崎の町に根ざしたユニークな空間を次々とつくっています。美容師を離れ、編集者として仕事の範囲を拡張しながら、今もなお美容師としての夢の続きを生きている——そんなミネシンゴさんにお話を伺いました。

夫婦出版社「合同会社アタシ社」代表 ミネシンゴさん
東京、神奈川で美容師4年、美容専門出版社髪書房にて月刊Ocappa編集部に2年在籍。その後リクルート在籍中に「美容文藝誌 髪とアタシ」を創刊。現在は拠点を三浦市三崎に起き、編集を軸に、ローカル、美容、場づくりをテーマにした仕事をしている。

クリスマスプレゼントは「パーマ」。人と違うことがしたくて美容師に

——高校卒業後は美容学校に進学されていますが、美容師になると決めたのはいつ頃でしたか?

ミネ:決めたのは高校3年生のときですね。僕は私立大学の付属校に通っていて、学部にこだわらなければ、大学に内部進学できる環境にいました。でも自分の将来をイメージしたときに、大学に行って就職して……という手堅い未来が見えてしまって、そうではなく、「人と違う道に行きたい」と思うようになりました。いろいろ考えていく中で、美容師がいいんじゃないかと。中学時代は毎月ファッション誌を読むのが好きだったし、中学2年生の時、クリスマスプレゼントは何がいい?と親に聞かれて「パーマ」をねだったこともあった。美容師ってカッコいいし、それなら周りの同級生とも違うことができそうだと思ったんです。

——その願い通り20歳で美容師になられたんですよね。でも、わずか2年後には美容師を辞めて、美容業界誌専門の出版社に転職されています。どういう経緯だったのでしょうか?

ミネ:22歳で発症した椎間板ヘルニアが原因で、美容師を続けられなくなってしまった。それで飛び込んだのが出版業界でした。

仕事を辞めるときは、もちろん落ち込むような気持ちもありましたが、転職のモチベーションになったのは「怒り」だったと思います。実は、最初に就職した美容室が、あんまりいい環境じゃなかったんです。記事にはとても書けないトラブルもあって、世の中にはお店やお客さんを大切にできないダメな美容師もいるんだ、と知りました。次に勤めた青山のお店は、美容師のプロ意識がまったく違ったので、「美容師を続けられないのなら、すばらしい美容師の話を世に伝えて、ダメな美容師を是正してやる!」と思ったんです。そんな怒りを抱えて、業界誌の仕事に飛び込みました。


——ところがその2年後、再び美容師に戻られるんですね。

ミネ:そうなんです。雑誌編集をした2年間で、すばらしい美容師さんたちにたくさん出会い、話を聞くことができました。そこで僕は、自分が抱える理想の美容師は、あまりにも視野の狭いところで描いていたものと気づきました。世の中には、多種多様な美容師の生き様、価値観、働き方があることを知ったんですね。後進の育成にこだわる美容師、海外との二拠点経営を成功させている美容師、出張美容師、複業美容師……。美容師として一人前になって、独立して、自分の店を持つといった一般的な成功モデルとは違う姿を知り、美容師像がぐっと広がって見えました。

「カッコいい美容師になって成功したい」といった安直な憧れとも違う、「自分のなりたい美容師」になればいいんだと気づいたのです。そして東京にこだわることをやめて、海の見える町で唯一無二の美容師になることにしました。再び夢を追いかけたい気持ちが湧いてきたころ、運良く椎間板ヘルニアが治っていたので、神奈川県の逗子市に移住して、鎌倉にある美容室に転職しました。

でも、それもそんなに長続きしませんでした、2年後には椎間板ヘルニアが再発してしまったんです。その年には東日本大震災や父の死、と自分の人生を考えるできごとが続き、これはもう美容師を続けるのは無理だな、と思いました。


アンチ精神に従ってできた「美容文藝誌」という新しいメッセージ

——2度も、夢が絶たれた。普通なら絶望しかねない状況だと思うのですが、そのときの心境はどうだったのでしょうか。

ミネ:それが、絶望はしなかったんですよね。この頃の僕は、再び美容業界への怒りや反抗心を抱えていたんです。この世にはさまざまな美容師のあり方があって、すばらしい美容師さんもたくさんいるのに、メディアに出るのはいつも都会で活躍する、ごく一部のカリスマ美容師ばかり。業界誌は、トレンドやファッション、売上、スタッフ教育といった目先のことばかり取り上げている。美容師一人ひとりの人生にスポットを当て、美容師のあり方を伝えるメディアがなぜないのか。
NHKの『プロフェッショナル』が、今まで業界誌が見向きもしなかったユニークな美容師に注目し、その人生を丁寧に取り上げることもありました。なぜ業界誌が真っ先にそれをやらないんだろう、と。

そして決めました。ないなら、自分でつくろうと。メディアに登場しないユニークな美容師の、生き方や働き方を伝えるため、再びメディアに身を置くことにしたんです。傍目から見れば、美容業界を諦めて出版業界へ、と見えるかもしれないけれど、僕にとっては美容師としての夢の延長線上にいて、変わらず美容業界にい続けるんだ、という感覚でした。

転職先にリクルートを選んだのは、自分でメディアを持つために、営業力が必要だと考えたからです。『ホットペッパービューティー』の営業マンとして働きながら、リクルート在籍中に美容文藝誌『髪とアタシ』を個人でつくって創刊しました。
「既存のメディアがやらないことをやる」というのがデザインや編集の確たる方向性でした。それは、雑誌を売る段階でも同じです。自分が気になる書店に出向き、直接会いに行って「この雑誌を置いてください」と頼み込む。そんな地道な営業活動が実って、初版1500部は完売。次第に読者のほうから「こんなにおもしろい美容師さんがいるよ」と連絡をもらうようになり、全国各地へと取材に回りました。

——その後、ご夫婦で出版社・アタシ社を立ち上げ、2017年に三崎に移住された。以降は三浦・三崎をテーマにした編集活動も精力的に行っていますね。

ミネ:たまたまイベントで一緒に登壇した人に「三崎がいいよ」と紹介され、たどり着いたのが、いま蔵書室カフェ「本と屯」のある、この建物でした。築90年の木造建築で、しかも目の前は書店。港町の商店街にある出版社なんて、唯一無二でいいじゃないですか。この場所だから生まれるものが必ずあると思うんです。

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——「海の見える町で唯一無二の美容師になりたい」と考えたところから「三崎に拠点を置き、多様な美容師のあり方や生き方を伝えていく」という道へは、ミネさんの中で決して分断せずにつながっているのですね。

他愛のない会話と人情話が生まれる“美容室っぽいもの”が好き

——ところで最近、出版業に加えて蔵書カフェや美容室、シェアオフィスといった「場」をつくっているのはどうしてですか。美容室をつくる、というのは、ここまで伺ってきた話にも通ずるとは思うのですが……。

ミネ:美容室は「いつか必ずつくりたい」って思っていたから、夢が叶っちゃったって感じですね。でも、この蔵書室カフェ「本と屯」も、僕が“美容室っぽいもの”をつくりたいと思っていたから、できたんだと思うんですよね。

——“美容室っぽいもの”?

ミネ:僕ね、美容室っていう空間自体がめちゃくちゃ好きなんです。美容室って髪を切るだけの場所じゃないんですよ。

僕が美容師のアシスタントをしていた頃、必ずシャンプーで僕を指名してくれる男性のお客さんがいました。毎月来てくれていたんだけど、ある日を境に来なくなった。ご家族に聞くと、末期がんなのだ、と。ところが、亡くなる数日前に、そのお客さんがお店に来てくれたんです。抗がん剤で髪は抜けていましたが、僕にシャンプーをしてほしいと指名してくれた。なんとか力を振り絞って行こう、と選んでもらえたのが美容室だったんですよね。

初めて髪を切る女の子のワクワク、子供の頃から通っていた美容室で成人式のアップをするときの感慨。そういう人生における大事な瞬間に立ち会うこともある。ただ立ち話をするために来るようなお客さんもいるし、お金のないアシスタントたちに、おにぎりをつくって持ってきてくれるお客さんもいた。こぢんまりとした場所で、人情話みたいなものがたくさん生まれるのが美容室なんです。

この「本と屯」も、そういう目的のないコミュニケーションが生まれる場所にしたかった。書店とも違う、ふらっと本を読みにきたり、おしゃべりしにきたりする公園みたいな場所。お金を介さない文化拠点、というか。

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——町の人たちが気軽に訪れることも多いですか?

ミネ:はい。いろいろな年代の方がふらっと来て、本をずっと読んでいたり、立ち話をしたりして帰っていきますよ。ここでの会話が、仕事のヒントになることもあります。

以前、つくった書籍がアタシ社に納品されたときのことです。横付けされたトラックから、大量の本を、本と屯の奥に運んでいると、よく来る小学生の男の子が「ミネくん、何してるの?」と声をかけてきました。「つくった本が納品されたんだよ」と言ったら運ぶのを手伝ってくれたんですが、3000部の本を目の前にしたその子が「ミネくん、こんなに本をつくってどうするの? こんなにつくっても売れないと思う」って言い出して(笑)。いやいや、そんなことはないよ、なんて話しながら、本をつくるにはデザインする人、印刷する人、製本する人がいて、こうやって本ができあがったら、ここから全国の書店に卸して売ってもらうんだ……と出版業界のしくみまで説明した。すると、その小学生が「じゃあ一番偉いのは本屋さんだね」と言ったんです。お客さんと直接対面して売るのは書店の人たちだから、と。何気ない会話ですが、自分の本を売ってくれる書店の方達とどう向き合うかといった大事なことに気づかせてくれたできごとでした。

先日は、90歳の元マグロ漁船の船員の方が来て、「三崎船長航海士協会の会報誌が50年分あるんだけど、いる?」って持ってきてくださいました。「めちゃくちゃ貴重な気がするからほしいです」と言って、いただいたんですけど。それは決してすぐに書籍化しよう、おもしろいエピソードを漫画にしよう、という意味で貴重だと言ったわけではありません。ここに書かれている言葉が、三崎という町に受け継がれてきた精神やカルチャーと何かつながっているかもしれない。そう思うと、僕は心が惹かれるんですよね。


自分の美意識と向き合い、「粋なもの」を継いでいく

——ゆるく人や町とつながっている開かれた場所だからこそ、時に、ある人の人生や生き様、町に受け継がれている価値観のようなものに触れることがある。ミネさんが“美容室っぽい”と考えるものが、何となくイメージできるような気がしてきました。ミネさんは、言葉が直接的に指す意味を超えて、“美容師”という職業や“美容室”という空間を捉えていらっしゃるような気がします。

ミネ:そうかもしれません。美容師を始めたばかりの20歳のとき、蟻牙スピリッツという出版社の社長だった五十嵐郁雄さんの書籍『美意識の芽』と出合いました。この本には、美容師に必要なのは「美意識」だと書かれていたんです。ファッション、トレンド、デザイン、売り上げ、接客、人間力といったことを散々美容学校で習ったけれど、美容師とはつまるところ、美意識と向き合っていく仕事なんだ!と、めちゃくちゃ感動したのを覚えています。

その後、五十嵐さんに会いに行き、お話させていただく中で、「粋」という日本文化独自の美的感覚についても話が及んだことがありました。僕は好きな落語の世界でも「粋なもの」に惚れていたような気がしたし、自分の美意識の中核に「粋かどうか」があって、自分の選択の判断軸にもなっていったような気がします。

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美容師は髪を切るだけの仕事ではなく、美意識と向き合う仕事。ただ新しく、都会的な場をつくればよいのではなくて、人と人、人と町、狭い空間の中で生まれる「粋なもの」を残しながら、継いでいく——。そんなふうに大まかに自分の道を捉えているから、たとえ手段が変わっても、自分の仕事が既存の職業の枠を超えて拡張していったとしても、ずっと美容業界には籍を置いているつもりなのです。今後の自分がどんな仕事をしていくのか、まだわかりません。でも、たとえ形を大きく変えたとしても、きっとまた“美容室っぽい”ことをやるんでしょうね。

■あなただけの「!」を見つけるために
美容師とは髪を切って、人を綺麗にする仕事。
もしそんなふうに捉えたとしたら、髪を切れなくなったことが、「失敗」となっていたかもしれません。しかしミネさんは、もう少し広く、美容師という生き方を捉えていました。
本の中から見つけた「美意識」という言葉。そして、美容室という狭い空間で、たまたま窺い知れる人生の機微や、個人が紡ぎ、町が継いでいく物語。美容師の世界を通じてミネさん自身が惹かれていったものは、そのまま、ミネさんがつくり上げる“美容室っぽい”プロジェクトの数々につながっています。
かつてなりたかった、あの職業を通じて、どんな生き方や働き方を思い描いていたのか、その職業を「何をする仕事」だと捉えていたのか。改めて振り返ったとき、職業の枠を超えた自分の思いに気づくことがあるかもしれません。
 
! あなたがかつてなりたかった職業は? それは、何をする仕事?

取材・文・構成:塚田智恵美


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