見出し画像

【試し読み】ドミニク・チェン先生「『予測不能』を楽しめる世界をつくりたい」①(『表現を究める』より)

3月15日発売の『表現を究める』『生活を究める』の刊行を記念して、好評発売中の「スタディサプリ三賢人の学問探究ノート」シリーズをnote限定で一部公開していきます。今回からは新刊『表現を究める』より、情報学を研究しているドミニク・チェン先生の「!!!」をめぐる物語を掲載していきます。

ドミニク・チェン先生
1981年東京都生まれ。カリフォルニア大学ロサンゼルス校卒業。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。クリエイティブ・コモンズ・ジャパン(現コモンスフィア)理事および早稲田大学文化構想学部准教授を務める。専門は情報学。
はじめに:「簡単にはわかりあえない」から始めよう
 もし、あなたがSNSを使っていたとしたら、一体どんな人とつながっていますか?
 例えばSNSでは、ハッシュタグ検索やコミュニティー機能を通じて、同じ趣味や意見を持つ人を簡単に探すことができます。同時に、自分とは意見が異なる人、わかりあえない人はブロックして、一切かかわらずに生きていくこともできるでしょう。
 ところで、「わかりあえない」ことは、悪いことなのでしょうか。例えば、趣味も異なり、話がかみ合わない相手に自分の思いを伝えようとしているうちに、新たな発見をすることがあります。それは同じハッシュタグでつながる仲間同士では得られない体験かもしれません。
 そう考えてみると、「わかりあえなさ」は、必ずしも悪いことではないように思えてきます。わかりあえなさは埋めなければいけない隙間としてではなく、新しい意味が生じる可能性ととらえることもできるのではないでしょうか?
「簡単にはわかりあえない」ことを前提に、言葉や表現のあり方を考えるようになった少年がいます。さまざまな言語に囲まれて育った彼にとって、言葉は唯一無二のものではなく、自分で考えてつくりだせる自由なものでした。
 友人には通じても先生には通じない「自分たちだけの言葉」を考えるのに夢中になっていたその少年―ドミニク・チェン先生は、簡単に翻訳しきれないものや、インターネットの世界が生む予測不能なできごとに魅了され、次第に、独自の〝わかりあえないままでつながる〟ための表現を模索していくことになります。
「わかりあえない」ままでも、他者と共に生きるために……。これは、さまざまなものを組み合わせてつくる、自分だけの表現に夢中になった少年が、まったく新しい表現の姿を模索し始めるまでのお話です。


言葉はひとつじゃない!  言葉の成り立ちへの興味と、「ぼくたちだけの言葉」

7か国語が行き交う家で、「あれ、今、何語で考えてる?」

 中国語のあとは、フランス語。次はベトナム語に変わり、英語、そして日本語……。
 幼い頃、私の父が、世界のあちこちに電話をかけ、さまざまな言語で話していたことをよく覚えています。父は、7か国語を使いこなす外交官でした。
 父の口から飛び出すさまざまな言語、その異なる響きを聴きながら、私はいつも不思議に思っていました。「一体父には、どんな世界が見えているのだろう?」と。そして自ずと「人はひとつの言語でしか、ものを考えられないのではなく、場合や状況によって、複数の言語を使いわけることができるものなのだ」と考えるようになりました
 私自身は、台湾、ベトナムにルーツを持ち、フランスに国籍を移した父と、日本人の母との間に生まれました。東京生まれの東京育ちですが、フランス国籍の子どもとして、幼稚園児の頃からフランス人に囲まれた環境で過ごしました。学校ではフランス語、放課後は日本語。複数の言語が入り混じる環境で育ったからか、今この瞬間、自分が何語で考えているのかわからないことがあります。
 今浮かんだ感情や感覚にあうのが、たまたま日本語の単語だったから、日本語で表現した。でも、どの国の言葉でもなんとなくしっくりこない感情や感覚もある―。言葉は多様であり、あるひとつの言語が完璧、というわけではないのだと、自然と思うようになっていったのです。

漢字の起源を自分でつくってみよう!

 日本語とフランス語をほぼ同時期に覚えていった私は、次第に「言葉そのもの」に関心を抱くようになりました。なぜその発音で、なぜその形で、なぜその意味なのか。異なる言語には、それぞれどんなルールがあるのか。まわりの大人たちを質問攻めにしていたことを、覚えています。
 小学校に進学した頃のことです。ある日、私は漢字の勉強をしていて、ふと疑問に思いました。
 ―漢字の「国」は、一体なぜ、こんな形をしているのだろう?
 気になって、母に何度も質問したのですが、「自分で考えなさい」と言われてしまいます。しばらく自分で考えて、いい仮説を思いつきました。「国」という字はきっと、「玉」が四角い囲いの中に入っているということなのではないか。では、「玉」とは何だろう? ……人間の魂のことかな? 囲いは境界線のようなもので、境界線の内側に、みんなの魂が入っているのが「くに」という意味なのではないか?
 後に、漢字の起源に照らし合わせてみると、この仮説は間違っていたことがわかりました。それでも、自慢げに仮説を話した私に対して、母は頭ごなしに否定しませんでした。「そうかもしれないわね」と、私の解釈を受け止めてくれたのです。
 もし、このとき母が「辞書を引いて、正しい起源を調べなさい」と言っていたら、今の私はまったく違う場所にいて、言葉や表現に対して強い関心を持つこともなかったかもしれません。正しいか、間違っているか、だけではない。自分で想像して、字形を解釈してもいい―。「言葉とは、自由に解釈できるものだ」と思えたことに対して、私は、強烈なおもしろさを感じたのです
 こうして「国」の起源を、自分流でつくってからというもの、私はまちで見かけた漢字の起源を推測し、勝手に読み解く遊びに没頭していきました。
 漢字の字形は何らかの意味を持っているように見えます。それと比較すると、アルファベットの世界には、まるで論理的な必然がないような不思議さがありました。
 字形だけでなく、単語にも疑問を抱きました。例えば、フランス語には、男性名詞と女性名詞という決まりがあり、すべての事物が男性か女性かのどちらかに分類されています。でも、なぜ「足」を意味する「pied」は男性名詞で、「手」を意味する「main」は女性名詞なのか。先生にたずねても、明確な分類の考え方はなく、「これは、そういうものだ」としか返ってきません。なんだか変だな、納得がいかないなと、私は不思議に思っていました。
 このときは「理由がない」と思っていた、不思議な決まりごとですが、後のちにフランス語だけでなくラテン語まで深く学んでいくことで、ちゃんと起源があるのだと知ることになります。言語が何かの起源にもとづき、ルールや思想のようなものによって形づくられていると知るたびに、私の違和感は解消されて、安心に似た気持ちを覚えました。
 言葉にはそれぞれ、ルーツがあり、その形や意味になる理由があるのだ……。私は言語そのものだけではなく、言葉がつくられていく過程や、言葉をつくるルールのようなものへの関心を募らせていったのです

先生には絶対に読めない手紙を書く方法

 今ふり返ってみると、言葉がつくられていく過程に関心を抱くだけでなく、私は「自分で新しい言葉をつくる」ことにも挑戦していたと思うエピソードがあります―といっても、何も難しい話ではありません。
 学校の授業中、みなさんは先生に隠れて手紙をこっそり回したことはありませんか? 先生に見つかってしまい、秘密の手紙の内容を読まれてしまった……なんて経験をしたことのある人もいるのではないでしょうか。
 小学生の私には、仲のよい友人がふたりいました。いつも仲良し3人でつるんで、遊んでいた私たち。ある日、授業中に、先生に隠れてこっそり伝えたいことを、手紙にして回そうとしました。しかし、先生にバレたら取り上げられて、中身を読まれてしまいます。
 そこで、アルファベットを変形して、3人だけの秘密の暗号をつくり、その暗号を使って手紙のやりとりをすることにしたのです。これなら先生に見つかっても、中身を読まれることはありません。

 これまでは、すでにある言葉からルールを読み解くことにおもしろさを感じていた私ですが、この暗号づくりをきっかけに、大きな発見をしました。自分たちだけのルールを考えれば、新しい言葉だってつくれる!―それはまるで、新しいゲームをつくるような感覚でした。言葉とは一方的に学ぶものでも、たったひとつの正解があるものでもない。自分たちの状況に適した言語を選んで使えばいいし、適した言語がなければ、つくることもできるのだと、気づいたのです。

画像1

 以降、私たちは手紙を書くこと以上に、3人だけの「新しい言葉」をつくることに熱中していきました。

写真を切り貼りして、 言葉にならない「おもしろい!」を表現する

 もうひとつ、10代の頃に夢中になった遊びがあります。
 新しい機器が好きだった父のおかげで、我が家には、1990年代前半の一般家庭にはめずらしい本格的なパソコンとスキャナーがありました。また同じ頃に、私は祖父の形見として古いフィルムカメラを受け継ぎました。フィルムカメラはデジタルカメラと違い、フィルムを入れて撮影し、現像をしなければなりませんが、独特の淡い色合いの写真を撮ることができます。その写真をスキャンして、最新のパソコンで加工するという作業に夢中になっていったのです。
 身近な人物や動物の写真を好きな形に切り抜き、近所の風景の写真に合成します。すると、ありえない場所に、いるはずもない組み合わせの、不思議な写真ができあがるのです。
 誰に見せるでもなく、私は写真のコラージュ作業に没頭しました。できあがった写真は、「言葉」ではない形で、私が感じたことや、私がおもしろいと思うことを表現しているようでした。パソコンとスキャナーを使えば、「文字」に代わる何かで、自分の感じたことを表すことができる。すでに身のまわりにある、さまざまに異なる素材を組み合わせていくことで、新しい表現をつくりだすこともできるのだと感じました。
 そのうち、パソコンを通じたインターネット空間には、自分のように画像を編集して遊んでいる人たちがたくさんいることを知ります。自分のつくった作品を、あるウェブサイトに投稿したところ、そのウェブサイトのトップページに採用されたこともありました。
 次第に私の興味は、言葉や言語を超えてあらゆる表現へと広がります。「表現の道具を自らつくりだすことができる」ということや、「言葉に限らない表現でコミュニケーションができる」ということへの興味に移行していきます。
 高校を卒業した私は、言葉に限らず、表現についての実践的な研究をしようと、アメリカの大学に進学し、デザインやアートについて学ぶことにしました。
 研究を進めるにつれて言葉や伝えることは、私にとって、遠くから観察する対象ではなくなっていきます。
 「背景の異なる人たちの間で、どのようにコミュニケーションをつくりあげていくか」という切実な問題として、私の目の前に現れるようになっていくのです

<続く>

『表現を究める』では、ドミニク・チェン先生の他に、川添愛先生(言語学・言語処理)、水野祐先生(法律・ルール学)が登場します。ぜひそれぞれ異なる「問い」から表現を究める三者三様の物語をお楽しみください。

※この作品は、note内での閲覧に限り認められています。その他の方法で作品の全部または一部を利用することは、著作権法で特別に認められている場合を除き、すべて禁止されています。

イラスト:はしゃ
©Recruit 2021

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?