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とある地方で出会ったおかあさんの一言

仕事柄、人の話を聞く機会が多い。
その対象や目的はさまざまだけど、往々にして言えるのが、つい「ストーリー」を探してしまうということ。
その人が何かをやり始めたのにはきっかけがあるのではないか。
人生の大きな転機の背景には、何かドラマティックな出来事があったのではないか。
その分野で一角の人になるまでには、計り知れないような研鑽を積んだのではないだろうか。etc.
そういう話を聞けたのならシメたもので、嬉々として手元のノートにメモを取り、アウトプットにはそうした出来事を軸に持ってくる。
けれどもたまに、少し肩透かしを食らったような答えをもらうことがある。
「なんとなく面白いと思って」
「家がそういう環境だったから」
「たくさん選択肢がある中でたまたま目についたものがそれだった」
こう来ると、少し困ってしまう。
こっちは「事件」が欲しいのだ。
読み手が納得するような感動的な出来事や、びっくりするような体験を語って欲しいのだ。
だから、今はそんなことはしないが、昔は誘導尋問のように相手からちょっとドラマチックな言葉を引き出して、それを軸に話をまとめたりもした。
けれども、そんな時は大抵出来上がるのは三文記事。自分で見ても茶番のようなものができあがる。当時のぼくは心の中で、「大した話を聞かせてくれないからパッとしない記事になった」と、相手のせいにしたりもしていた。

そんな書き手としてド三流以下とも言える思い上がりを猛省した出来事がある。

それはある地方の、おかあさんの話を聞いているときだった。
その企画は地域に伝わる伝統文化について、主軸となる担い手の人に話を聞くというものだった。
ところが、訳あって当初話を聞く予定だった人がNGとなったため、急遽代打として立てられたのがそのおかあさんだった。
その人は普段は表に出る人ではないが、その地域の出身で、伝統文化の担い手を陰でささえるような立ち位置の人だったように記憶している。
正直、あまり期待はしていなかった。
最悪の場合は表面上の話を聞くだけで終わってしまうかな、とも思った。
案の定、話を聞き始めると「そんなに深い理由はない」「この地域では当たり前のことだから」と淡々とした返答が返ってきた。
どうしたものかと考えあぐねてた時、おかあさんからふいに出た一言に僕はハッとさせられた。

「今はテレビでもなんでも美談を欲しがるけれどそんなものはないんだよ。私たちはこれを当たり前のようにやってきたし、これからもやり続ける。それがここで生きるってことなんだから」

その一言を聞いた時、なんだか胸がきゅーっとなった。
かっけぇなって素直に思った。
それが「伝統」ってことなんだろうなって、すとんと腑に落ちた。

今は、いや、昔からかもしれないけれど、
テレビや雑誌、ウェブメディアにはわかりやすい美談があふれている。
綺麗に取り繕ったものもあれば、「感動ポルノ」なんていう言葉が表すように誰が見ても御涙頂戴を狙った押し付けのようなものもある。
なんでこんなものを作ってしまうのだろうと疑問になる反面、作り手側からの視点から見ると、その気持ちも痛いほどよくわかる。

結局、分かりやすい「物語」や「ドラマ」があるほうが伝わりやすいし、作った気にもなるのだ。

もちろん、そこに主眼をおいた小説や映画を作るならば、そこは徹底的に作り込むべきだろう。
けれども、リアルな人間を相手にする場合においては、本当はわざわざそんなものを取って付ける必要はないのだ。
人間一人ひとりが異なるからには、必ずその人の中には他人の知らない人生がある。
そこを掬い取ることができれば、それはそのまま他人を惹きつける「ドラマ」になりえるのだから。

少し前に『〇〇の生活史』という、“普通”の人々のライフストーリーをまとめたものが流行ったけれど、あれはまさにこのことを象徴しているように思う。

自分ではなんでもない人生だと感じていたとしても、当たり前のことだったとしても、それを体験していない人にとっては特別な人生なのだ。

おかあさんにとっては当たり前の一言だったのだろうけど、話を聞く立場の人間を初心に立ち返らせてくれる金言として、僕は大切に胸にしまっている。

Q.梅雨を楽しむ方法を教えてよ!
A.楽しいか分からないけど、自分を7割晴れ男or女だと思って生きると、意外と雨に当たらながち!

>>>Q.梅雨明けに行くなら海と山どっち派!?
*質問を見てなにか思い出したエピソードがあったら合わせてどうぞ

書いた人:ざわわ

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