見出し画像

”無限“の先にあるものとは。 映画『Powers of Ten』

あれは大学浪人をしていた頃だっただろうか。
通っていた予備校に、少し変わった講師がいた。
座学よりもアートや映画、旅などの面白さを伝えることに熱心なその人は、予備校講師でありながら「勉強してる暇があったら映画館と美術館に行け」が口癖だった。

自分が主宰をするネイティブアメリカンとドイツ人アーティストによるライブペイントや、満月の夜に個人宅の庭先で行う民族音楽ライブに生徒たちを招待するなど、授業の時間以外にもさまざまなことに触れる機会を提供してくれた。

受験期の若者たちの興味を、勉強以外のものに向けさせるそのやり方は予備校講師としては“失格”だったのかもしれない。けれども、良い意味でも悪い意味でも、その講師との出会いは、その後のぼくの人生に影響を与えたことは間違いない。


そんな講師があるとき、『Powers of Ten』というショートムービーを見せてくれた。
内容は至ってシンプル。シカゴの公園で寝そべるカップルの様子を、俯瞰から1メートル四方のフレーミングで写す。そこから10秒ごとに10倍ずつの速度でカメラが上空へと離れていくというものだ。

カップルの姿はあっという間に米粒のようになり、やがて地球を飛び出し、太陽系、銀河系、銀河団、そして宇宙の果てを思わせる暗闇へと辿り着く。すると今度は、カメラは逆再生のようにズームしていき、冒頭の公園で寝そべるカップルの姿まで戻ると、今度はその人体へと入り込んでいく。人体を構成する細胞、DNA、分子、電子……。カメラがより深層へとせまるほどに、人体もまた、一つの小宇宙であるかのような感覚に陥っていく。

このショートムービーは、1977年にデザイナーのチャールズ・イームズとレイ・イームズ夫妻によって教育を目的として製作されたそうだ。一方で映像作品としても高い評価を受けており、後世のさまざまな作品へと影響を与えている。ウィル・スミスとトミー・リー・ジョーンズがタッグを組んだ名作映画『メン・イン・ブラック』のエンディングシーンは、まさに『Powers of Ten』のオマージュといっていいだろう。

当時多感な時期だったぼくにとって、この作品は衝撃的だった。

マクロの世界とミクロの世界、相反する二つの世界に広がる無限を辿ることで、いつしかマクロとミクロの概念が曖昧になっていく。

もしかしたら、人間の体の中には宇宙のようなものが広がっているのかもしれないし、地球の存在する広大な宇宙も実はなにか小さな生物を構成するごくごく微小な構成要素の一つなのかもしれない。そんな妄想が次々と湧いてきて、なにか世界の真理に触れてしまったようで、ドキドキしたことを今でもよく覚えている。

この世界の果てには何が存在するのか。そもそも果てなんてものは存在するのか。

おそらく、今より技術が発達してさらに詳細な宇宙や人体についての研究が進んだとしても、人間がそれらを完全に解明することはないだろう。さらにそんなことを考えたところで、即物的な意味においては人生にほとんどメリットはない。

けれども、無限とも思える世界の先を考えること。そして大と小、どちらのベクトルにも広がる遥かなる世界に自分は繋がっていること。その二つの視点は、ものを考えるうえでの核のようなものとしてぼくの中にあり続けている。

あまり語りすぎると宗教的になってしまうのでこの辺りにしておくが、こうした世界の捉え方が原始的な宗教を生み出していったのは想像に難くない。

大人になればなるほどに、卑近な出来事に翻弄されてばかりいてこの感覚を忘れていたが、前回のガキんちゅの「もし宇宙に行ったら何をしてみたい?」という質問で、ふと思い出したので言葉にしてみた。

実際に宇宙に行ったら何をしたいだろう。よくある無重力空間で水の玉をストローで飲むとかはしてみたいけど、何か違う。

手紙を宇宙空間に流してみたいかもしれない。自分が宇宙に来た物理的な証を、宇宙に残してみたい。それは燃え尽きても面白いし、万一それが後世の人々や宇宙人の手に渡ったならばなおさら面白い。

なにより、地球に帰ってきた後に自分が流した手紙が宇宙を漂っていると考えると、なんだか少しだけ毎日を楽しく過ごせそうじゃないですか?

次の人への小さな質問
【1カ月旅をするとしたらどこへ行きたい?】


この記事を書いた人:ざわわ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?