3年目の宇宙と虹色えのぐ
娘(3歳0ヶ月)作、「メルちゃんのための遊具」。
さて問題。
このブロックの作品、どうしてもバランスが悪くて倒れてしまいます。どうしたらいいでしょう。
ヒント※「足をつけよう!」と娘が言いました。
答えは次の写真で☆
メルちゃんのための遊具は立つのか。
大人が正解、なのか。
そうだよね、足つけたらいいよね、と私も思っていたとも。
その言葉を聞いたとき、私はもう1本足つけるとばかり、思っていた。
足2本で安定すると。
黄色いブロックの下にもう1本足を伸ばすのかと。
1本で安定しなければ2本、それでもだめなら四本足と、考えるのは、おかしくないだろう。私は当然のように考えていた。
そしたらなんと、ブロックをひとつ、無造作に取り出して、今ある一本の足の下にくっつけるじゃアーリマセンカ。
おいおい、一本足が長くなって、それではもっと傾くだけ……。
ちょっと口を出しかけたのだが、やっぱりやめて見まもることにした。まぁ、失敗も大事なこと。そう上から目線で見守っていた。
そしたら、なんと、お見事、たってるじゃないか。
その写真がこちら↓
安定してますねぇー。立ち姿が美しいですねぇー。
完全に私の負け。
いや、娘は別に勝負もしていないんだけど。当然のように、遊びを続けてるんだけど。
せっかく立ったブロックそっちのけで、ウサギの指人形、手のひらではさんで、蝶々にし始めたんだけど!
斬新だねっ!!
私が娘によく使う言葉ベスト10に入る「斬新だね!」が出ましたー!
3歳になったばかりの彼女の頭のなかは、3年間の経験が元になっている。
生まれて3ヶ月くらいはふにゃふにゃしてたから、どこから覚えてるのかわからないけど、この3年間は彼女にとって、実験に実験を重ねた、未知のものへの挑戦状を受けとる毎日だったにちがいない。
ソフトクリームが未来を開く
先日、連日のように絵の具をやりたいというときがあったので、パレットなるものを用意してみた。
皆さんご存じの小学生が使うようなパレット。これもご存じとは思うが、それには小部屋がならんだ場所があり、各色の絵の具をそこに少しずつ出せる。
以前は豆腐の容器に、リクエストされた色の絵の具と水を、こちらの裁量で調合していた。なので、大胆には使えるが、本人が濃さを選べずにいた。今回は、濃いも薄いも自由になり、ただ塗るという行為から描くという行為になることもあるかなと思い、導入してみた。
すると彼女は「ピンク」と言い、小部屋にピンクの絵の具を入れるよう指示。すぐに同じ小部屋に「今度はきいろ」と別の色の絵の具を入れるよう指示したのだ。
これはなんだ。
私の脳は混乱した。
私は小学生の時から、図工という科目で、美術という教科で、ワン小部屋にワンカラーと、教わってきた。もう何十年も染み付いた、水彩絵の具の基本である。
カラーは、大広間でちょちょっと混ぜ合わせるものなのだ。目をつぶってでも想像できるほど、染み付いたやり方。
いや、まて。
そんなことは誰が決めた。
パレットという本格的なモノを使ったからといって、そのように使わなければいけないなんて、決まりもない。そのように使ったって、パレットがバッキバキに壊れるわけでもないし、絵の具が使えなくなるわけでもないし、賃貸住宅が絵の具まみれになるわけでもない。よってこちらの損害を被るわけでもない。
彼女は絵の具に出会ったばかり。こうでなければいけないものなんてなにもない。
よし、入れちゃえ……!
片寄会うようにピンクのとなりにきいろい絵の具を入れた母の葛藤をよそに、彼女は「今度は青!」といった。
青かー……
また、大人の知識が邪魔をする。
ピンクに黄色はまだいい。青が混ざったら、汚い色になるにちがいない。経験上、混ぜすぎて黒っぽい灰色になった絵の具を、何度もみてきた。
彼女をがっかりさせたくない。
いや、まて。
経験上、黒っぽい灰色になった絵の具を彼女と何度も作ってきたけど、彼女ががっかりしたことなんて一度もなかったのでは。
私が勝手にがっかりしただけだ。
彼女は、大好きなピンクとはレベルが変わるが、青などと変わらぬスタンスでその色を受けいれ、楽しく紙に塗りたくっていた。
彼女は『いわゆる汚い色』にたいしても、平等に面白がり、茶色になった!灰色だ!と、喜んでいた。
いかんいかん。ここは腹をくくろう。
母の腹積もりなどお構い無く、娘は結局その場にあったすべての色を小部屋にのせた。
それはさながらアメリカンなソフトクリーム。謎にカラフルな生クリームのようにこんもりと盛られ、隣はガラ空きなのにそこだけ密な、みたことのない絵の具パレットとなった。
満足そうな娘は、意気揚々と水バケツから筆をとり、そのクリームをすくいとるようにつけると、ダイレクトに紙に描き始めた。
紙の上に、かすれ具合も美しい、生き生きと立体的な虹色の線が浮かび上がっていた!!
娘は「虹ができたねーぇ!!!」と嬉しそうで、いくつかマルを描き、満足して絵の具を終えた。
その作品があんまりにも大胆で美しくて、母は感動してしまった。
そのあとこっそり母は思った。
ああ、あそこで大人の常識を『教えてあげ』なくてよかったと。
先回りして、『きれいな』作品を促さなくてよかったと。
よかれと思って手出しをしそうになったことを猛省した。
「大人は優れていて、こどもは教えてあげなくてはいけない存在だと、思っていることがおこがましい」
と、これは我が保育の師匠の言葉だ。
こどもは日々、実験のなかで生きている。
経験は少ないかも知れない。
娘はたった3年分の知識と経験しかない。
でも、私とは全く違う人で、だから、違う実験をしながら経験を重ね、考えを深めていっている。
3年間の経験は彼女のものだ。
私が3歳の時にはできなかった経験もしている。
コロナの状況だって、30うん年もたって初めて経験したことを、彼女は3歳にしてもう経験しているのだ。
3年目の彼女の中の宇宙。
それは未来に広がっている。
私なんかの経験、知識、常識の、ずっとずっと先をゆく。
だから大人の知識と常識なんかを押し付けちゃだめだなぁ。
やってみること、感じること。トライ&エラーを自分しながら、経験していくこと。それをどうとらえるかは本人の自由。
彼女が満足できることを保証すること。
ただ、日常生活の流れのなかだと中々難しい。
こぼれないか、汚れないか、怪我しないか、先回りしてしまうことが多い。
危ないことは伝えるべきだし。それでもやりたいというなら、安全性を確保しながら付き合いたいが、中々出来ないこともある。
でも、
彼女のためを思ったアドバイスが、彼女を小さくまとめてしまいそうになる。それはできるだけ避けたい。。
「今、大人の古い知識と経験を押し付けてないか?」
できる場面で振り返り見守れるように、心にとめておく。
絵の具の件は些細なことだけど、忘れてはいけないなぁと思った。
3年目の宇宙の前では、
大人が正しいとは限らない。
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