ラベル

私たちは日々様々な物事にラベリングをしている。この人は〇〇そうだ、これは〇〇だとか。
時に人はそれを窮屈に感じ憤る。だが、誰もが人や物事に対してラベリングをしている。同じものに対して自分の認識と他人から見る認識が異なりかつ自分の認識が不十分である断言された際に憤りを感じることが多いのではないだろうか。

ラベリングを人生で初めて強く意識した出来事がある。小学生の頃、社会の授業中である。先生が「世の中には様々な肌の色の人がいます。主に世界には3つの人種が存在します。白人、黒人、黄色人種です。あなたたちはどの色だと思いますか?」と問いかけた。私は自分の腕を見た。私は色白で周りを見渡しても私が1番白かった。白人だと確信した。生徒は口々に自らの見解を述べた。隣の席の人は腕を友人に見せながら「私の肌は黒くない。黄色でもない。白人だと思う。」と言っていた。しばらくして先生が「私達は黄色人種、黄色です。」と言うとクラスがどよめいた。

私は先生から肌の色で人種が異なるというこを教えられるまで人の外見的な違いについて気に留めたとこがなかった。(当時私の住んでいた地域に外国人があまりいなかったことも要因の一つだと思うが)これがきっかけで私は自分が黄色人種であること、そのカテゴリーに自らの意思を介さず属するということを強烈に認識した。

ラベリングの全てを真っ向から否定するつもりは無い。人と関わりながら生きていく人間には必要なものである。しかしながら同時にラベリングを疑うということもまた非常に重要なのである。「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない。」とはよく言った言葉である。

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