女剣士の絶望行 一章 蕾む菊の花 2話 笑顔

「私に、侍女の働きをしろと?」
 つい語気を強めてしまったことに気付き、慌てて口を押さえた。
 机越しに向かい合う玉英イインが、頭を下げている。その隣で椅子に座る菊花ジファ様は、その大きな漆黒の瞳で彼女の顔を覗くようにじっと見上げていた。
 ここは菊花様の部屋の隣で、元は侍女が住んでいた部屋だ。壁際の棚には巻いた糸や糸きりばさみなどの裁縫道具が並んでおり、また別の場所には化粧台がある。そこにも櫛や小瓶が置かれていて、まるでつい最近まで使われていたかのような雰囲気があった。
 それもそのはず。昨日、突然、侍女がその任を解かれてしまったそうだ。しかも何故か、後任はあてられないまま今日を迎えている。

 玉英は頭を上げてこちらを向くと、眉尻を下げながら申し訳なさそうに話し始めた。
豊蕾フェンレイ殿が護衛として来てくださっていることは存じておりますが……」
 我らユイ家は、武をもって王家に忠誠を誓っている一族だ。これまで王族の側近となった同胞らは、すべて護衛として務め剣を携えていると聞く。
 侍女の働きというのは、仕える者の身の回りの世話だと聞いたことがあった。部屋にある裁縫、化粧道具などはそのためのものであるに違いない。私はそれらを使ったことが無い。服の破れを繕うくらいのことはしていたが、綺麗に仕上げる技術などは持ち合わせていなかった。だからやれと言われても、できない。

「どうして、私なのでしょうか?」
「どうも、王陛下が豊蕾殿を側近に御指名されたのは、侍女が居なくなったことが考慮されているようでして……」
「……は?」
 どういうことだ? 侍女がやめたから、私を指名しただって? 私の武が認められたから、じゃないのか? まさか。
「私には、侍女の働きが求められていると……そういうことでしょうか?」
「はい」
「……私が選ばれたのは、私が女だから……」
 思わず拳を握りしめる。屈辱的だ。鍛えてきた剣の技を否定された気分だった。だが、それ以上に……私は、長から期待されていなかったということなのか? それが一番悲しかった。
「わたし、自分のことは自分でできますから!」
 菊花様が、朗らかな声を出し、こちらを向いて微笑んだ。彼女の笑顔は、やはり素敵だ。
「いけません、菊花様。そのようなことを言っては……」
「大丈夫です。豊蕾、心配しないで大丈夫ですよ」
「はあ……」
 私を気遣ってくださっているようだが、玉英は菊花様の言葉に戸惑い、返す言葉を選んでいる様子だ。
「今日は鈴香リンシャンに髪結いをしてもらいましたけど、明日からは一人でできると思います!」
 そう言いながら、菊花様は自身の頭を両手で撫でた。左右のお団子状の髪は、綺麗な流線を描いて結ばれている。見事なものだった。鈴香という者が侍女を務めればいいだろうとは思ったものの、そうはいかないのだろうな。
「結い方を見てしっかり覚えましたよ! 母上から、”明日から侍女はいないのだから、自分のことは自分でやりなさい”と聞いていましたから!」
「あっ、菊花様……!」
 菊花様の言葉に玉英が言葉を詰まらせている。母上?
「母……王妃様のことですか?」
 そう訊ねてみると、玉英は頭に手を当て、深いため息を吐き出すようにしながら答えた。
「ええ……そうです」
 何をそんなに落ち込んでいるのだろうか? 菊花様は、自信満々といった様子で頷いているではないか。
「そういうことですから、気にしなくていいですよ、豊蕾。護衛のお仕事に専念してくださいね」
「承知しました」
 まあ、本人がそう言うのなら仕方がないだろう。玉英は、頭を抱えたままだが。

***

 そろそろ昼食、ということで、菊花様、玉英の二人と共に廊下を歩いている。
 しかし、菊花様の部屋から他の場所までいくまでの道のりが、やはり長すぎる。これでは菊花様も毎日大変だろう。菊花様は、奥が小さく見える程に長いこの廊下を、お団子頭を揺らしながら何の苦もない様子で歩いていくのだが、その小さな歩幅では時間がかかるし、疲れないはずがない。菊花様の部屋がこんなに離れた場所にある理由が、全くわからないのだった。玉英は教えてくれないしな。
 ようやく突き当りに着き、そこから右に曲がって別の廊下へ出ると、他の使用人の姿がいくつか見えはじめる。そして、さっきここを通ったときには無かった香りが漂ってきた。甲殻類を油で揚げたような、香ばしい香りだ。
 これは、あのときの……過去、虞家が仕事で大手柄を立てた際にふるまわれた、豪華な食事のそれと同じだった。あれ以来一度も食べたことはないが、よく覚えている。
「いい匂いがしますね。お腹が空いてきました!」
「ええ、そうですね」
 隣を歩く菊花様がその可憐な顔を上げ、私に微笑みかけてくれる。歩き慣れているのか、意外にも余裕がありそうだ。一方で玉英の方はといえば、何か考え事でもしているのか俯きがちにしていて、横髪で表情が見えない。私が侍女の働きを断ってしまったせいだろうか? だとしたら申し訳ないと思う反面、できないものはできないのだと言いたくもなるのだ。

「豊蕾、ここです! ここが食堂ですよ」
 そこには人が数名横並びになっても通れるほどの大きな扉があり、両脇には衛兵が立っていた。扉の向こうからは、女性の話し声や笑い声などが聞こえてくる。
 二人と共に扉をくぐる。中は大人数が入れるほどに広く天井も高い。壁には絵画や壺などがたくさん飾られており、それらは窓から差し込む光を受けて輝いているようだった。
 中央には大きく長い食卓がある。その下には金糸の刺繍が施された赤い絨毯が敷かれていた。周りの椅子には、菊花様と同じように煌めくような服を身に纏った女性達が座っていて、談笑していた。どうやらこの卓は、王族のためのものらしい。
 彼女達の後ろにある棚の上には高そうな皿がいくつも並べられており、料理は既に盛り付けられている。きっとこれから運ばれてくるのだろう。どれもおいしそうな匂いを放っていた。
「豊蕾、玉英。それでは」
「あ……はい」
 そうか、菊花様はその卓に座るのか……とぼんやり考えていると、玉英が一礼して踵を返した。私も慌ててそれに倣う。
 気のせいだろうか? 一瞬、菊花様の表情に変化があったような気がするのだが。何というか、寂しさを堪えていたような……。
 でもまあ、菊花様はきっと他の王女らとも仲よくしていることだろう。気のせいか。

「豊蕾殿、私達はこちらです」
 玉英が導いてくれたのは、棚の反対側に位置する場所だ。そこにも長い食卓が置かれていた。周りの椅子に座るのは、使用人とみられる女性たちだ。みな女なので、どうやらこの部屋は女性専用のようである。
「玉英! こっち!」
 座る女性の一人が、こちらに向かって手を挙げながら声を上げた。彼女は赤い服を着ており、顔立ちも美しい人だったのだが、どこか人懐っこさを感じさせる雰囲気がある。それはおそらく、彼女が浮かべている笑顔のせいだろう。彼女の黒髪は丁寧に結われていた。何本かの編まれた束を右から左に持ってきて留めていて、王族にも負けないくらい凝った髪型だ。
「鈴香です。今朝、王女様の髪を結ったのは彼女ですよ」
 玉英が耳打ちしてくれる。なるほど、あの女性がそうなのか。
 鈴香というその人は、私の方を何やらじっと見てきた。目が合うとにっこり笑って手を振ってくる。とりあえず会釈しておくことにした。玉英についていく形で彼女の近くまで歩いていく。
「座って、座って」
 鈴香は私を左隣の空いた席に座らせようと促してくるので、私は素直に従った。私の左に玉英が座ったので、彼女ら二人に私は挟まれる形になる。
「あたし、鈴香っていいます! あなたが、新しくきた菊花様の侍女さんですか?」
 そう言って、また笑顔を見せる鈴香。明るく朗らかな雰囲気を持った人だと感じた。
「豊蕾と申します。侍女ではなく、菊花様を護衛する者として参りました」
「え? ちょっと、玉英、そうなの?」
 彼女は笑顔を消すと、玉英の方へ視線をずらす。
「ええ、その、虞家の方だから……」
「そうなんだ。てっきり、そうかなって。ごめんなさいね、豊蕾さん」
 そう言うと、鈴香は再び笑顔を浮かべた。
「いえ……」
「ねえ」
 どう返事したものかと口ごもった私に、鈴香は矢継ぎ早に話しかけてくる。
「あなた美人ね!」
「は?」
 突然何を言い出すのだろうか?
「化粧無しでこれでしょ? すごいなあ」
「いや……」
「そうね。おめめはぱっちりだし、鼻筋は通っているし」
 玉英まで? 振り返ると、彼女も笑顔で頷いていた。今までそんなことは言わなかったのに、なぜ?
「肌も白くてすべすべしてるし。髪も、手入れしてない割には綺麗じゃない? 普通、こんなにストンと落ちないんですよ? 羨ましいなあ」
「はあ」
 褒められて嫌な気分はしないものの、なんだか恥ずかしくなってくる。だが、ここで照れてしまってはいけない気がするから無表情を保つ。
「お手入れしてあげたくなっちゃうな。後で、あたしの部屋に来ません?」
「え……」
「いいかもしれないわ。もっと綺麗になれますよ、豊蕾殿。それに、お手入れのお勉強にもなりますし……」
 玉英、それは、侍女の仕事について学べるという意味か? どうしても、私に侍女の働きをさせたいということなのか。
「あら、嫌? 豊蕾さん」
「そういうわけでは……ただ、私は菊花様をお護りする立場なので、そのようなことは必要ないのではと」
「そう? ま、先に宮廷での暮らしに慣れなきゃいけないですよね」
 鈴香はあっさりと引き下がってくれた。正直言ってありがたい。玉英が今どんな顔をしているか、確認する勇気はないが。

 そうしているうちに、卓上に料理が運ばれてきた。この部屋に入る前からずっと漂っていた、香ばしい匂いの正体はこれだったらしい。
 蝦は殻ごと揚げられていて、鮮やかできれいな赤色をしている。他にも、豚肉はこんがりと焼けていて食欲をそそるし、蒸し鶏は皮に火を通してありとても食感がよさそうだ。汁物の中にはたくさんの野菜が入っているようだし、茶碗には穀物類が盛られている。果物の盛り合わせまであった。
「すごいな」
「でしょう? ここに勤めて長いけれど、いつも圧倒されちゃうのよね」
 思わず漏らしてしまった感想だったが、鈴香が反応してくれた。にこにこしながら大きく頷いている。
「でも、ちょっと待ってて下さいね」
 周りの人たちはまだ料理に手をつけないでいる。すぐにでも頂きたいが、流石に様子を見てから……ん?
「玉英殿?」
 彼女は俯いていた。こんな豪華な食事を前にしても元気になれないほど、私が侍女の仕事をやらないのが嫌なのか?
「あ、いえ」
「あぁ、うん、これからね」
 鈴香の苦笑。どうした?
「これから?」
「ちょっとね……」
 そう言って鈴香は目を伏せた。何だろう、さっきまでの彼女らしくなかった。

「いらっしゃいました」
 玉英が小声で言った。
 誰かが入ってきたのかと、扉の方を見ると、帯刀した男性が二人。誰かの護衛のようだ。
 それに続いて、ゆっくりと、しかし堂々とした足取りで入ってくる人がいる。あれは……。
「王妃様、ですよ」
 鈴香が耳打ちで教えてくれた。
「王妃……」
 その姿を見ながら呟いた。前に二人、そして後ろに二人の護衛を引き連れて歩いている女性こそが、この国の王の妻であり菊花様の母でもある王妃だ。
 歳は五十前後といったところだろうか? 紫色の衣に身を包んでおり、頭や首には煌びやかな装飾品を身に着けているが……私には、やけに派手な格好に見える。顔や手は[[rb:白粉 > おしろい]]で塗り固められていて、その白さが目立ってしまっている気がするのだ。目尻には朱をさしていて、紅を引いた唇は真一文字に結ばれていた。前髪を上げた頭髪は固めているようで、やけに黒く見えるのは、白髪を染めているからだろうか。
 菊花様とは全く印象が異なる人物だ。特に、その切れ長の目は菊花様と似ても似つかないものだった。むしろ正反対といってもいいだろう。つまらなそうな力のない表情も、常に笑顔を見せてくれる菊花様とは違っていた。
 王妃が中央の食卓にたどり着いて椅子に座る。護衛たちはその近くで立ち止まっていた。そして王妃はその卓の席に着く6人の王女達に目を移す。もちろんその中には第六王女の菊花様がいる。王妃が彼女らを見回す様子が、顎を上げており、高慢ちきな感じがして不快だ。

「さて、おやり」
 王妃は張りのない声でそう言った。何だ? 食事も始めずに……あぁ。
「毒見か」
 小さく呟いた。隣の玉英や鈴香に聞こえたかと思い、左右を覗いてみるが、二人とも目を伏せていただけだったので安心した。聞こえていないならいいか。それにしても、誰がやるのだろうか? 使用人の誰かだろうとは思うが。おおよそ、厨房担当の者が呼ばれてきて……。
 だが、私は耳を疑う。
「母上、本日もわたしがお料理をいただきますね」
 聞き間違えか? それは紛れもなく、菊花様の声。そして今度は目も疑いたくなるような、驚きの光景を目の当たりにする。
 ひとり、菊花様が、立ち上がったのである。その横顔に、微笑みをたたえて。
「は……!?」
 菊花様が毒見するのか!? 思わず声が漏れ出てしまう。立ち上がろうとすると、何者かに左腕を抱かれた。玉英だ。続けて口が手で覆われる。今度は鈴香。
「お静かに、豊蕾殿」
「しかし……!」
「わかるんですけれど、落ち着いて、豊蕾さん」
 二人に宥められるまま、席に座り直した。
 私の勘違いなのか? そうであって欲しいと願い菊花様を見る。だが、菊花様は皿と箸を手に持つと、卓上の食べ物……蝦や肉、芋などを一口分ずつ箸でつまんで皿に乗せ、それを口に運んでいった。本当に、毒見を始めてしまった。何度か咀嚼した後、飲み込む。
 力が入ってしまう。体が動きそうになる。その度に両隣から押さえつけられたり、手で口を塞がれたりした。その間もずっと菊花様を凝視する。何もできず、焦りと不安が募っていく。

「菊花、これも飲みなさい」
「ん……はい、姉上」
「早くしなさい」
 王女の一人が、菊花様が座っていた席からお椀を持ってきては、まだ食べ物を飲み込み切れていない菊花様の前に置く。それを躊躇なく受け取ると、菊花様はその汁を一口飲んだ。
 何故そんな仕打ちをするんだ!? 怒りが込み上がる。再び立ち上がってしまいそうになるのを必死でこらえた。玉英と鈴香に抑えられていなければ、確実にやっていただろう。
 王妃は、菊花様が毒見をする様子を、ただ見ているだけだ。王女たちも、菊花様に汁物を差し出したあとは静観しているだけで、誰も助けようとしない。それどころか、早く終わって欲しいと思っているかのようにすら見えた。

 そんな状況の中、皿に残る最後の食べ物を口に含み、ようやく飲み込んだ菊花様は、にっこりと笑って見せる。それから、王妃に向かって言った。
「ごちそうさまでした、母上」
「頂くとしようか」
 王妃はそれだけ言うと、横から使用人が近寄って、彼女の目の前の皿に料理を取り分けていく。他の王女らは、自ら料理を取る者もいれば、使用人を呼びつけて取ってもらう者もいた。
 菊花様は……元の席に戻り、静かに座っていた。もう、満腹になってしまわれたのだろうか。他の王女らと話もせず、じっと黙っている様子だった。

「あの……食べましょう、豊蕾殿」
 私の左腕を抱く玉英が促してくる。近くに座る女性たちを見ると、皆食事を始めていた。菊花様が毒見を終えるのをじっと座って待っていた彼女らに怒りを覚える。だが、私だって何もできなかったのだから、同じか。
「ごめんなさいね」
 鈴香はそういいながら、私の皿に料理を取り分けていく。
「いえ……」
 仕方なく小声で答えると、鈴香はほっとしたような表情を見せた。玉英はゆっくりと私の腕を離した。
 玉英と鈴香が私を制したのも、仕方のないことだろう。もし菊花様の毒見を止めたりすれば、王妃の命令に逆らったこととなるだろうから。それでもきっと、二人ともこの事について納得はしていないように感じた。

「では、いただきましょうか」
 玉英殿の言葉に促され、私たちは食事を始めることにした。無力感が残り、それは次第に苛立ちへと変わっていった。これからも王妃や王女は菊花様に毒見をさせるのか。誰も止めないのか。私は何もできないのか。蝦の殻を、指先で潰した。

***

 食事が終わり、玉英殿と鈴香殿は片付けの手伝いのために食堂に残っている。私は彼女らに外で待っているよう促されたので、扉から出てすぐの廊下の壁に背を預けて立っていた。菊花様を待っているのだ。
 食事中は気付かなかったが、ここには帯刀した男たちがたむろしていた。王女たちそれぞれの護衛が、食事する彼女らを待っていたらしい。
 武装するこの者たちの雰囲気には慣れていた。今朝まで私は、虞家の武人たちと暗殺の仕事をしていたのだから当然だ。私も彼らに馴染んでいると思う。腕を組んで俯きがちにしていれば、彼らも私に気を止めることはないようだ。もっとも声をかけられたところで返事をする気はない。そんな気分では無いのだ。ずっと同じことを考えては苛々し続けている。
 誰かが毒見をしなければならないのは、わかる。だが、それをするのが王族、しかも若年の娘というのはおかしいではないか。
 廊下の壁を右足の裏で蹴った。鈍く低い打撃音が響く。男たちの視線が私に向いたの肌で感じる。

 食堂の扉から人影が現れたのを横目で見た。王妃の護衛、そして王妃。さっきみたいにゆっくりと歩いてくる。周りの男たちが、次々と膝を着く。仕方なく私も跪く。気に食わないが。
 低い位置から見える王妃の足が一旦止まる。そして、こちらを向いて、歩いてきて……?
「お前が今日からの……あれの側近か」
 頭の上から王妃の声。私に話し掛けているのか?
「第六王女様の護衛を務めさせていただいております、豊蕾と申します」
「ふん……死臭がするわ」
 鼻を鳴らす音と同時に放たれた言葉に顔を上げそうになるが、なんとか堪えた。
 今朝の仕事の臭いは落とした筈だ。王妃が今朝の仕事のことを知っていて言っているのか、それとも本当に私の体に死臭が残ってしまっているのかわからないが、蔑まれている気がして良い気分ではない。
「あの御方は、気を遣って女をあてたようだが、余計なことよ」
 言葉を私に浴びせてくる。一体何なのだ? さっきから意味がよくわからない。
「適当にやっていればよい。あれにはそれで十分なのだ」
 何だと? 菊花様をお護りする、重要な任務だぞ? それに、さっきから。
「あれ、とは」
 私が声を出すと、すぐに王妃は踵を返し、そのまま歩きだす。顔を上げると、彼女が立ち去っていく後ろ姿が見えた。王妃は私に一方的に言葉を投げ、去っていったのだ。
 聞かなくてもわかる。あれ、というのが、菊花様を指すというのは。

 私の中で、ある考えが纏まりつつあった。
「菊花様……」
 菊花様は、王妃や他の王女らから、虐げられている。
 毒見を強いられているなんて異常だ。加えて、菊花様の部屋が端に置かれているのは、不便だがそれ以上に、安全上問題がある。まるで、菊花様にいつ不幸があってもかまわないというような扱いだ。それに、昨日突然、侍女が解任され、その後任があてられないというのも、嫌がらせというか、どうせ居なくなるような人物に侍女はいらないという意味に思えた。
 菊花様とはじめてお会いしてから数刻しか経っていないが、あの方の人柄の良さはすぐにわかった。だからだろうか、彼女がこんな扱いを受けているのがとても悲しいと感じた。同時に怒りが湧く。

「豊蕾?」
 菊花様の声だ。我に返った。いつの間にか、立ち尽くしていたらしい。目の前で菊花様が私の顔をじっと見つめていた。
「あ、すみません……」
 頭を下げた。菊花様は、まだ、心配そうな顔をしていた。
 毒見をさせられていた時、菊花様は笑顔だった。さっき私と話していた時と同じような顔で。作ってできた笑顔であるに違いなかった。理不尽な扱いをされていながら、どうして笑顔でいられるのだろうか? 私にはわからない。
「大丈夫ですか……?」
「ええ、ご心配なく」
 私などに気を遣ってくれる菊花様。このようなお方がなぜ虐げられるのか。

 菊花様の両隣には玉英と鈴香がいた。考え事をしていた私を見てか、彼女らも私の顔を伺ってくる。私は彼女らに考えを打ち明けることにした。
「玉英殿。どうしてあなたが、私に侍女の働きをさせようとしているのかが、わかりました」
 玉英の表情が曇るのが見えた。
「侍女の解任を指示したのは、王妃様です。特に理由もなく、侍女はその日のうちに解雇されました」
 玉英の説明。やはり、王妃が。
「私どもが代わりに、菊花様の身の回りをお世話できれば良いのですが……」
「あたしたち使用人も、なかなか時間がとれないんです。今朝はなんとか菊花様の髪を結えたけれど……」
 鈴香も続けて話した。彼女たちも歯がゆい思いなのだろう。
「菊花様は何も悪くないんですよ? それなのに、あのひとったら、食事前にあんな役割を押しつけて」
「鈴香、それ位になさい」
 王妃への悪口を言いそうだった鈴香を玉英は嗜める。そして私に向かって頭を下げた。
「豊蕾殿、申し訳ありませんでした……」
「いえ、よくわかりましたので。それより……引き受けますよ」
 顔を上げ、私の顔を伺う玉英。鈴香も、菊花様も私を見ていた。
 私は決めた。こんな理不尽な目を受けている人を、助けない道理は無い。
「……それでは……」
「どこまでできるのかわかりませんが、侍女の働きというのをやってみたい」
「ありがとうございます……!」
「豊蕾……」
 菊花様はまっすぐだった視線を揺らしていて、何か困惑を含むような、複雑そうな表情をしているように見えた。
「菊花様」
 少し屈んで、菊花様の顔の高さに合わせた。
「お世話をさせてください。はじめは慣れないかもしれませんが」
「でも……豊蕾に迷惑がかかります」
 私は首を横に振って見せた。
「そんなことありませんよ」
 それから、深くお辞儀をして、言った。
「これから、よろしくお願いします」
 すぐには返事がなかったので顔を上げる。菊花様はしばらく黙っていたが、やがて微笑んでくれた。その笑顔が、作り笑いでないといいのだが。

***

「で、あたしの部屋に来ちゃったけど。いいんですか?」
「む……」
 寝台と、大きな鏡のついた化粧台がある。小さな窓からは、西からの光が差し込んでいる。鈴香は化粧台の横に置いてある棚から、櫛や、小さな壺を取り、化粧台の上に置いた。
 私は鈴香から髪結いを教わりに来ていた。あの後、勢いで来てしまった。
「でもね、あたしは嬉しくて。早速、あなたの髪の手入れをさせてもらえるんですから」
 鈴香は微笑みながら話した。そういえば、そんなことを言われていたような気がするな。だが、手入れしてもらうために来たのではないが?
「いや、私は菊花様の髪の結い方を教わりに来たので……私の髪ではなく」
「何言ってるの、お手本が必要でしょ? あなたの髪を結って見せるから、それを見ててくださいね」
 そう言って、自分の前にある椅子を指差した。座れということか。仕方ないのでそこに座り、鏡に向きあう。めったに見ない自身の姿だ。さっきは鈴香や玉英から美人なんて言われたが、どうなのだろうか。自分ではあまりわからないものだな。髪は手入れをしていないので、ところどころ跳ねているし、その黒にはあまり艶がない気がする。それでも、広がりすぎず、下に落ちるようになっているのが、彼女から言うと普通ではないそうだが。

「ねえ、豊蕾」
 突然、呼び捨てにされる。つい戸惑ってしまった。
「な、何でしょうか」
「あのさ、髪結い、教えてあげるから。そのかわり、堅苦しいの無しにしてもらっていい?」
「はい?」
 いきなり何を言い出すんだ? 鏡越しで見える彼女の顔は、ニッコリとした笑顔だ。私が黙っていると、彼女は続けた。
「なんかこう、距離があるっていうか。あたしの方が年上だと思うけど、あたしは気にしないからさ」
「はあ」
「ね?」
 別に不快ではないし、まあいいか。
「……わかった」
「やった! ありがとう! よろしくね!」
 喜ぶ彼女につられてか、私も自然と笑みが浮かぶ。思えば、気さくに話し掛けられる相手が、宮廷には一人もいなかった……いや、睿霤ルイリョウがいるが、あんな嫌味なヤツは勘定に入らない。

 さっそく鈴香は何やら小さな壺のようなものを取り出す。蓋を開けて中身を手に出した。どうやら中身は油のようだ。品のある花の香りが漂った。それを両手に広げ、私の髪に馴染ませる。冷たい感触が心地良く感じると共に、少しだけ不安になった。私は生まれてこのかた、他人に髪を触らせたことなどなかったからだ。
「あれ、緊張してる?」
「まあな」
 正直に答えると、鈴香は笑ってみせた。緊張しているのが馬鹿らしくなってくる。
「大丈夫だって。安心してよ」
「ああ、わかってる」
 手が頭に触れるたびに身体が強張っていたのに気が付き、意識をして力を抜く。すると花の香りが心を落ち着かせてくれる気がした。鈴香は木製の櫛を台の上から取る。それは油がよく染み込んでいるのか、艶やかな光沢があった。
「よく通るはずよ……」
 そう言って彼女は櫛で私の長い髪を一房掬うと、丁寧に梳き始めた。
「本当だ」
 これまで、髪をくくる際、指で髪を引っ張ると、必ず引っ掛かりがあった。それがない。絡まった毛先が解けていく感覚が新鮮だ。気持ちがいい。
「ほら」
 そう言って、鈴香は私の髪を持ち上げ、溢すように流した。サラサラと髪が落ちていく。確かに手触りが良い気がした。試しに触ってみると、いつもより滑らかな感じがした。癖になりそうな感触だ。
「こんなにも変わるとは」
 思わず呟いた言葉に反応するように、鈴香は嬉しそうに笑った。
「でしょう? 手入れって大事なのよ。それに、豊蕾の髪質も良いと思うわよ? 絹糸みたい」
「そうかな」
 鈴香は私の髪を梳いていく。その心地よさに、少しの間黙っていたが、鈴香が口を開いた。
「ありがとうね」
「何のことだ?」
「菊花様のことよ。菊花様が毒見をさせられたときに、あなた、怒ったじゃない。あたしは止めちゃったけど、内心、嬉しかったわ」
「やはり、鈴香たちも、あれには納得していないんだな」
「当然でしょ? 使用人たちは、みんなそうよ」
「だが、王妃が強要しているために、誰も逆らえない……というところか?」
「……まあね」
 やはりそうか。あの王妃の高慢ちきな顔が脳裏に浮かぶ。王妃は娘であるはずの菊花様に辛く当たっている。何故そんなことができるのだろう。
「どうして、あんなに怒ったの?」
「当然だろう。あんな理不尽、どうにかやめさせなければ……」
 そのとき、胸をかすめる何かを感じた。
「豊蕾?」
「わかるからな。ひとり、のけ者にされるという、つらさは」
 鈴香は櫛を持つ手を止めていた。
「私は、虞家の男たちと共に剣を振るってきた。だが女である私は軽んじられ、疎まれてきた」
「そうなの……」
「それなりの実力をつけたつもりだったが、私より実力のある男はいくらでもいる。力のない女は、なかなか認められないものだ」
 今回の抜擢も長に実力を認められた為ではなかったことを思い出し、少し寂しくなってしまった。黙って聞く鈴香に私は続ける。
「だから、ひとり、あのような仕打ちを受ける菊花様を見て、つい感情的になってしまった。私と重なった気がして」
「そっか」
 語ってしまった。妙なことを言ってしまったか?
「すまない、つまらない話だったな」
「ううん。良かったって思った。菊花様のところにきたのが、あなたみたいな人で」
「そ、そうなのか……?」
 予想外の言葉に動揺する私をよそに、彼女は微笑みながら私の髪を一房手に取った。そして櫛を通す。

「さあ、菊花様といえば、あのお団子頭よ。同じようにするから、鏡でしっかり見てなさいね!」
「え……」
「なによ。同じにしなきゃ、意味ないじゃない」
 菊花の髪型を真似するということは、つまり……あの頭の左右に、お団子のような髪の束を作るということだ。私の頭が、あの可愛らしげな形になるのか!? 固まる私を構うことなく、鈴香はせっせと準備をしていた。まあたしかに、菊花様の髪結いを学ぶのであるから同じでなければ意味が無いのだろう……。腹を括ることにした。
「……そうだな……」
「じゃあ、始めるわね」
 鈴香は櫛を持ち、髪留め用の紐をそばに置いたあと、再び私の髪をさわりだした。逐一説明をしながら、鈴香は私の髪を二束に分け、片方ずつ左右の耳の上辺りの高さで纏めた。これで準備が出来たらしく、彼女は机に置かれた瓶を手に取って中身を少量取り出した。恐らく油だろうが、先程の油と違って、今回のものは粘り気がある。それを私の髪に揉み込んでいった。ベタついていたのが次第に固くなり、髪が固定されていくのがわかる。鈴香は右手側の束を持ち、鏡越しにそれを見せてくる。
「こう、ねじるの」
 そう言っては内向きに髪を捻る。それを髪が結ばれた根本に巻き付けていった。針状の髪留めを刺し、手鏡を使って、巻き付いた髪を私に見せるようにした。
「見える?」
「ああ」
 これは確かに、菊花様の頭に乗っていた団子だ。簡単に作ったように見えた。少し、勇気付く。
 その根元を紐で括り、固めの油を塗れば完成らしい。左手側も同様にしていく。説明も程々に、鈴香は手早く作業を終えた。
「豊蕾は髪が長いから、余らせてみたよ。どう?」
 そう言われて、鏡に映る自身の髪全体を改めて見ると、そこには別人がいた。前側の髪は垂らされているが、後ろ髪は全てまとめ上げられ、左右二つの団子から余った髪が体の外側に流れていた。そんな姿の自分を見るのは新鮮だった。悪くない。だが、正直……。
「うん。可愛い!」
 恥ずかしい! 可愛らしさに特化したこの髪型は、幼い菊花様には似合っていたが、私には不釣り合いだと思ったし、この髪で宮廷内を歩く姿を想像すると、顔が熱くなりそうだった。
「やっぱり似合う! あなた、美人さんだから何でも似合いそうだけどね。特にこの髪型だと……」
「わ、わかった。それで、この髪を解くには、どうすれば……」
「え? せっかく可愛くなったんだから、このままで居なさいよ。勿体ないじゃない」
「いや……だが……」
「あ! 余った髪で輪を作るといいかも」
「は!? ま、待っ……」
 鈴香が無邪気な顔で私の髪に再び触れようとしたその時、扉を叩く音がした。
「鈴香、良いかしら?」
 玉英の声だ。いいところに来てくれた!
「あら、どうしたの?」
「豊蕾殿はまだいらっしゃる?」
「ええ、ここよ。入って」
 鈴香が許可を出すと、扉が開き、玉英が入ってきた。
「中々、お戻りになられないから」
 そう言う玉英の後ろに、小さな人影があった。
「菊花様……」
「豊蕾?」
 菊花様が部屋の中へ入ると、その大きな目をさらに大きくして、私の髪を見つめていた。そして次の瞬間、パッと笑顔になると、こちらへ駆け寄って来た。
「まあ!」
 彼女はそう言いながら私の頭を見上げていた。手を胸の前で組みながら、どこか興奮気味だ。

「……あ……」
 その、笑顔。これまでの彼女の顔と、何か違う。言い表せないが、直感でわかった。心からの笑みなのだと。これまでの笑顔も、花が咲くような笑顔だった。でもそれは、あの嫌味な王族たちにすら向ける、作りもののような笑顔でしかなかったのだ。それが今はどうだ。 本当に嬉しそうに笑っているではないか。まるで年相応の少女のよう……いや、それ以上に輝いて見えた。その姿は、とても可愛らしい。
「とても素敵です! それに、お揃い!」
「菊花様と同じように結って見せたんですよ。豊蕾が、菊花様の髪を結えるようになれたらって」
 はしゃぐ菊花様に、鈴香が説明する。菊花様は目を輝かせて私を見ていた。嬉しいやら恥ずかしいやら複雑な気分だ。
「まだ見せてもらっただけなので、練習はこれから……」
「はい! ぜひ、わたしの頭を練習台に使ってください!」
「れ、練習台!?」
 王女らしかぬ発言に驚いたのは私だけではないようだ。二人も固まっていた。
「わたしの髪なら、好きなようにして構いません。わたしもいつか、髪結いが出来るようになったら、豊蕾の髪にお団子を作ってあげます!」
「あの、菊花様。豊蕾殿は、菊花様のために髪結いを覚えようとしているのですよ」
「そうですよ。これからは、あたしが豊蕾を手伝いながら、ちゃんと菊花様の髪結いをできるようにしますから」
 慌てて二人が説得を試みるものの、菊花様は聞き入れようとしない。それどころか、何故か私に期待するような目を向けてきた。
「わたしは、豊蕾にしてほしいのです。そして、髪結いをし合って、お揃いにするんです!」
「へ……?」
 つまりは、ずっとこの可愛らしい髪型でいてほしい、と言っているのか?
「わ、私に、この髪型は……ちょっと……」
「そうですか? せっかくのお揃いなのに……」
「菊花様。豊蕾殿には大人らしい髪型がお似合いかと思いますよ」
「そんな! 豊蕾みたいな美人さんだからこそ、この形がいいのよ! ねえ?」
 私が黙っている間にも、話は勝手に進んでいく。さすがに、私の意志が尊重されるよな……?

「豊蕾!」
 菊花様は寝台に飛び乗りながら、楽しげな声で私を呼んだ。
「こっちへ来てください!」
「……こちらですか?」
 どうされたのだろう? よくわからないが、彼女の隣へ。そして、菊花様が指を指すのでそちらを見る。
 化粧台の鏡に、私と菊花様が並んで映っていた。
「ふふ、せっかくのお揃いですから」
 寝台に腰掛ける菊花様は、膝の上で手を重ねた。私も腰掛けると、ちょうど鏡に私の頭が収まる。ひとつの絵画のように、並ぶ二人。鏡に映る菊花様は、満面の笑み……ほんとうに、嬉しそうな顔だ。その笑顔を引き出しているのが自分だと思うと、なんだか、嬉しいような、むず痒いような……形容しがたい感情だ。それは今まで抱いたことのないものだった。

 鈴香と玉英を見ると、私達二人を眺めてニコニコしていた。それがなんだか恥ずかしくて、鏡に視線を戻すと、鏡の中の菊花様は横を向いて……あ、直接、私を見ている……!
 私も見返すと、彼女はにっこりと笑うのだった。なんて可憐な笑顔なのだろう。心が洗われるようだ。
「豊蕾、もう少し、このままで居てくださいね」
「……ええ、はい……わかりました」
 少なくとも、今日はこの髪型のままで……まあ、たまにはいいか。そう思いながら、鏡を見つめた。

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