現代において倫理の動機付けとなるのは何か

現代においては宗教的な価値は廃れ、超越の眼は失われた。共同体の力は薄れ、個人主義の時代である。そのような現代の知識は「ばれなければ何をしても良い」という考えを助長しかねない。

超越の眼を失い、人々は人間による刑罰しか怖れなくなった。では、絶対にばれないという状況で人が尚も倫理的に行動するための要素には何があるのか。結論から言えば、それは自己と他者の意識の同一視である。もし自分が相手(の立場)だったらという感覚である。

相手には自分の行為はばれない。自分が相手に不利益なことをしたことはばれないので、相手との関係性も壊れない。このように相手がどんな不利益を被っているか気づかない種類の犯罪も考えられる。その場合、人は尚も超越の眼を無視して倫理的に行動することができるか。

例えば心の中で他者にひどい暴力を振るう(殺したり、レイプしたり)。これは倫理的か。これらは法律で罰せないことだし、心の中は自由が確保されているとしても、やはり倫理的とは言えないのではないか。相手にばれないし、実害もないのであれば倫理的なのだろうか。心の状態はやがて行動に現れ出るという因果応報の理法の観念から“予防的観点から控えた方が良い”という論理も考えられるかも知れない。

しかし、一つの点を見落としている。では、なぜ良心は痛むのかということだ。自分は良くないことをしているという自責の感覚が良心である。超越の眼を失っても、法律の刑罰から逃れても、社会(世間)の眼から逃れても、自分自身の良心の眼があなたを裁く。自分自身の良心の眼、これは一体何を意味しているのか。

良心の眼を欺き、これを鈍麻させ、無感覚にさせるならば、「ばれなければ何をやっても良い」という倫理観は完成してしまう。良心など幻想だと言い聞かせればよいのだ。とはいえ、心の機能は深層意識下で働くものだから、ただ言葉で言い聞かせて否定したところで、深層意識の動きは止め切れず、良心の働きによって自らの心身が蝕まれる可能性がある。

良心とは何か。それは他者なる意識が自己の心の中に組み込まれているものである。心には対話がある。これは心はそれ自体で一つの社会であることを意味する。自己の中にある他者の意識は、要するに自己の複製である。自己の複製が他者となって自己と対話してくる。ここでは自己の苦痛は他者の苦痛と同一視される。

ある他者と接する時、ある他者を想起する時、その他者は無意識のうちに自己像と重ねられている。他者とは自己との二重性から滲み出た差異なのである。この差異は捉えがたいので未知の恐怖や魅力を与えるが、同時に自己との同一性(共感)も他者から感じる。差異による恐怖や魅力と、同一性による共感が混在したものが他者観なのである。

さて今後は論理が混乱しないように、現実世界における自分と相手を自己/他者とし、自己の心の中における自分と相手を自我/他我と書き分けることにする。

自己を大切にするとは、自我の中にある他我(もう一人の自己)に対する暴力性をある程度甘受しつつ、他我(もう一人の自己)から発せられる良心の声(その暴力に対する苦痛の響き)にも耳を傾け、自我と他我の対立構造を調整する超越の眼(理性)を持つことではないか。

この分析は、フロイトの精神分析と重ねると、自我=エス、他我=スーパーエゴ、超越の眼=エゴとそれぞれ対応するが、観点が異なるため対応関係は少々異なる(フロイトの理論では欲望(エス)、自我(エゴ)、超自我(スーパーエゴ)である)。

自我は自己の欲望を体現する主体であり、他我はその欲望による暴力に対する苦痛を訴える主体である(これはスーパーエゴによる規範の押し付けというより、むしろ感情的なクレームなのである)。そして超越の眼がその両者を俯瞰的に見て、自我と他我が互いを滅ぼさぬよう調停する理性を司る主体である。

自己の内部で起きるこの心の社会バランスは、そのまま現実世界の他者に投影されるので、その人の現実社会での人間関係の構築の仕方に対応し、反映され、影響を与える。

したがって、自己の心の中には少なくとも、欲望(自我)と感情(他我)と理性(超越)の三つの主体からなる社会性があり、自己はその心の社会性を外界(現実世界)に投影して世界を観ている、と言える。だからいつどんな時も(それが他者不在の時であっても)、自己をいたわることが他者をいたわること(倫理)に繋がるのではないか、と結論できる。

ここで“いたわる”と書いたが、この点が重要である。超越の眼と監視カメラの眼は同じようなものと認識されがちであるが、超越の眼は監視カメラと本質的に異なる。超越の眼はいちいち自己を細かく罰しようとする眼ではないし、自我と他我の関係性に対して喜んだり悲しんだりするということである。だから罰するためにその視線を向けている訳ではなく、他人事として冷淡に見ている訳でもなく、保護者(親)が我が子の福祉を見守るような眼差し(まなざし)で見ているのである。一方、監視カメラは他者の眼(警察の眼)である。

したがって、超越の眼(理性)を自己の中に置くことは、自己に対して自ら保護者となる保護者の視点を持つということを意味する。超越の眼が自己に対して暴君であれば自己の社会バランスは崩れるし、超越の眼の存在が否定されて自己に対して無機能となっても自己の社会バランスは崩れる。超越の眼を適切な仕方で自己の内部に据え置くことが重要となる。

それはいわば、宗教の神観において、罪を一つ残らず厳しく罰しようとする審判者(他者)の眼として神を意識するのではなく、福祉と安全を顧みる保護者(超越)の眼として神を意識することと同じである。

さらに、自己の中の社会構造を変えてくれる要素となるのが他者の差異性である。他者との同一性は安心感や一体感を与えてくれるが、他者との差異は恐怖や魅力をもたらす。しかし、その恐怖や魅力といった未知なるものへの関心によって、自己の中の社会構造は変更(再適応)を迫られる。安心と恐怖により、自己の内部の社会構造に結束と改革が共に促される時、自己と他者の間にコミュニケーションが果たされ、現実世界に社会現象を形成する。

社会というのは、まず個々人の心の中に形成される現象であり、そして個々人の持つ社会観がコミュニケーションによって相互に影響を与えることによって、個々人の中の社会観は変容していく。個々人の間の社会観が一致する部分では共同体としての結束が生まれ、一致しない部分では改革(対立や分離も含む)が生まれるのである。自己とはこのようにして他者によって変化し、磨かれ、適応化するものである。もしこの点を軽視するならば、良心の声は自分よがりなもの、自分よがりな他者観と化してしまうだろう。

さてここまでの論考で、自己の中には三つの主体(自我、他我、超越の眼)があり、自己の中のこの社会バランスを保つことが自己にとって大切であり、それゆえ「ばれなければ何をしてもいい」のではなく、具体的な他者の眼がない時であっても常に自己への配慮を行うことが、倫理的に行動する動機付けとなるのではないかということを考察した。それはつまり、「もし自分が相手(の立場)だったら」という良心の声を大切にすること、保護者の視点で自己をいたわることである。さらに、他者とのコミュニケーションによってこそ自己の良心は磨かれていく点も大切である。

最後に、人間が自我の欲望(利益)に基づく行動を抑止する力となる要素をまとめる。

<心的世界>
①超越の眼(保護者の眼差し)
②理法の声(因果応報の摂理)
③良心の声(自己の中の他我からの感情的訴え)
<現実世界>
④他者の眼
 ④‐①警察の眼
 ④‐②社会(世間)の眼
 ④‐③個々人の顔(他者から直接発せられる威厳、威嚇、牽制力となるオーラ)

これらはすべて必要な要素であり、すべてが密接に関わり合っており、いずれかが不足したり、肥大したりしても、心の社会バランスは崩れると思われる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?