現代の倫理とは何か

2012年、ジェニファー・ダウドナとエマニュエル・シャルパンティエによって画期的なゲノム編集技術CRISPR-Cas9(クリスパーキャス9)が開発された。それまで時間のかかるゲノム編集が、数時間で的確に自在にできる技術であり、世界を変える基盤となる技術である。2019年、後継のCRISPR-CasXも発表され、技術革新は続いている。

遺伝子組換え食品はノックインであり、遺伝子を追加したものである。対して最近認可されたゲノム編集食品はノックアウトであり、遺伝子を切断したものである。ノックインは自然界で見られないが、ノックアウトは突然変異と同じで自然界でも見られる。クリスパー・キャス9はノックイン・アウト両方可能な技術である。

欧州ではゲノム編集食品と遺伝子組換え食品は同列に置かれることになったが、日本ではゲノム編集食品(切断しただけのタイプ1のもの)は食品表示義務がないので、今後我々の食卓に何気なく入り込む。日本では2019年10月に解禁された。しかし、クリスパー・キャス9は莫大な特許料を払う必要があるし、特許権を巡り中国の研究者と諍いも生じている。そこで日本では2019年、独自にクリスパー・キャス3を開発した。日本の開発ではこちらが利用されるだろう。

薬物療法は対処療法に過ぎないが、遺伝子治療は根本治療となり得る点で、将来的には遺伝子治療の方が医療のベースになると思われる。薬物治療を併用するとしても、遺伝子分析をすれば個別に的確な治療も行える。また生殖細胞に移植せず、体細胞にのみ移植すれば、組換えの効果を次世代に受け継ぐことはないとされる。

ヒトの生殖細胞へのゲノム編集は科学的研究目的以外は禁止されている。クローン人間を作ることも禁止されている。デザイナーベイビーが生まれれば、その遺伝子組換え人間の自然拡散に歯止めが効かず、起こり得る問題を制御することはできなくなるからだ。ただし、難病や重度の障害を生前に治療できることは魅力的であるに違いない。

こうした時代の変化を迎え、果たして人為的な進化(品種改良やゲノム編集)はどこまで許されるべきか、という倫理的議論はとても重要になってくる。編集自体は簡単にできるようになってしまったので、厳重な法整備と取締りも必要となる。

倫理というのは基本、やろうと思えばできるがあえてやらない、という線引きのことである。行う能力はあっても意識的に制限する、というのが倫理なのである。自由の規制である。できないことは倫理問題になるはずがない。できることが増える時に新たな倫理問題が生まれるのである。それは科学技術の倫理も同様である。

例えば、神は全知全能だが何でも行う訳ではない。神自身が自らを制御している。つまり神には倫理があるということだ。人間も同じである。殺せるが殺さない、というのも倫理の一つである。人間は能力的に限界がある点で神とは異なるが、その能力を技術によって拡大させてきた。できることは紛れもなく昔よりも増えている。しかし、それをどう用いるかには倫理が必要なのである。

できるけどあえてやらないというのは自制心である。それでもやってしまうのは欲望である。過剰な知的好奇心や生存欲求も欲望の一つである。故に、人類、知るべきでない領域があるし、自然を受け入れるべき領域がある、ということ。それが倫理である。

理論的な技術では、ヒトの遺伝子を人為的に改変し、最強な形態へとデザインすることも可能となるだろう。もはや人間の形態を留めていないかも知れない。しかしそれは自然の摂理による進化とは異なる。だが、科学主義は倫理の存在根拠を認めず、ヒトがゲノム編集により自己改造することも新たな進化の戦略だと主張するかも知れない。科学主義者は言う。ヒトが新たなフロンティア、つまり地球外の惑星へと生存領域を拡大する時、自然の進化速度では対応しきれない。そのため知性はより効率的で加速的な進化手法を生み出した。それがゲノム編集であり、それも自然の摂理の一つなのであると。

そもそも科学では明確な種という概念はない。進化とは常に遺伝子内部で起きていることであり、形態的な差異が明確になった時に便宜的に種と呼んで分類学上区別しているだけなのである。だからヒト(ホモ・サピエンス)という種に拘る必要性はどこにもない。改変を続け、新たな環境に適応するのみである。

それに対して、宗教とは知性による変化を抑制する機能を果たしている。宗教は倫理を説明する。そして倫理は抑制力なのである。こうして宗教は社会に一定の秩序と安定をもたらすのである。したがって、宗教権威への反発は社会の環境変化にその宗教倫理が不適合になった時に生じる。その時、新たな宗教倫理へシフトすることが必要となる。

例えば、ユダヤ教はかつてユダヤ民族のための宗教だったが、キリスト教は異邦人も含めた世界宗教となったのである。であれば、もし宇宙人が発見されれば宇宙宗教に発展する必要は出てくる。

だがその前に、地球内の土地から地球外の惑星へと土地が拡大することが、人間の隔離とゲノム編集による人為的進化を加速させ、形態的にもヒトとは別種のヒトが誕生すれば、人間教としてのキリスト教を克服する必要性が出てくる。その時、人間中心主義の終わりとなる。

つまり、宇宙宗教とは脱人間中心宗教のことであり、種という概念を越えた知的生命体中心主義の宗教ということになるだろう。ローマ・カトリックのフランシスコ教皇が宇宙人への愛と救いについて述べたのも、こうした哲学的背景があると思われる。

知的生命体中心主義の宗教では、アダムの解釈はホモサピエンス(人間)である必要はない。アダムとは知的生命体の起源と解釈できるのである。つまり、超越者を認識できる(つまり霊性を持つ)生命体の起源ということである。この物質宇宙における知的=霊的生命誕生の起源がアダムということになる。

私は常々、創世記1章の創造の記述は生物進化論と矛盾なく解釈可能と考えてきたが、創世記2章のアダムとエバの創造の記述には頭を抱えてきた。聖書を寓意的に解釈するとしても難解なのである。それで、今ではアダムは単一のホモ・サピエンスなのではなく、知的生命体の起源の総称と読む方が理にかなっていると感じている。

よって、倫理がもたらす抑制力は、人間であることにその根拠があるのではなく、知的生命体であるところに根拠がある。そもそも知性がなければ倫理的な行為を自由に選択できないのだから、よく考えたら当然の結論である。それに神も天使も人間ではないが、同じく倫理を有している。全く理にかなった原則である。

したがって、知的生命体として我々はこの宇宙の中でどのように振る舞うべきか、知的生命体(同胞=隣人)に対して、また非知的生命体(動植物など)に対してどのように振る舞うべきか。これを考えることが新しい倫理の基準となってくるだろう。知性という観点ではアンドロイドは知性と認めるのかという問題もあるが、知性と呼べる段階はまだすぐには来ないように思われる。

これらはSFでも空想物語でもなく、すでに現実問題なのである。


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