短編小説「暁に恋して」作 清住慎 ~12.end~

 12.

 号泣した後の記憶はところどころ抜け落ちている。どうやってトイレから出て来たのか記憶がない。お金を払った覚えもなければ、バッグをどうしたかも覚えていない。

 でも飲み会が終わったらしいことは覚えている。カラオケボックスから外へ出たことも覚えている。だけどその先は記憶がない。

 私は今、全身に風を浴びながら道を進んでいた。身体を貫くほどの冷風が今は心地よい。それが私の体内を浄化してくれるような気がする。自分の身体を動かさなくても前方からやって来る風圧に、私は夢うつつ。

 何故か私の指先が掴んでいる物体だけが妙に生暖かい。私はお尻が痛くなるほどガタンと揺れた拍子にその正体を確かめた。

 背中。男の人の。上を見る。耳の後ろから横顔へ。何だ、見たことあると思ったら霞君。前を見てる。髪が風になびいてる。私の髪もなびいてる。どうして? ああ、そうか。このスピード感は自転車だ。密着感は二人乗り。え? 二人乗り? 霞君と? 私が? どうして??

「わぁっ!」
 急速に意識が戻るにつれて、私は混乱して大声を上げた。

「うおっ!」
 その声に霞君もかなり驚いたらしい。コントロールを誤り、塀に向かって自転車が傾いてよろめく。それをブレーキと足を使って何とか立て直して止める。

 霞君の顔が私の方を向いた。目が合っても私は笑えない。一体何がどうなって、こうなっているの?

 霞君はちょっと驚いた表情で私を見ていたが、すぐに笑顔になり、
「お前、二人乗りで寝るなよな。カーブになったら振り落としちまうぞ」
 そう言って、自転車を再スタートさせた。

 けれど私の混乱は収まらない。一体何がどうなって、私が今霞君と二人乗りをしているのか、さっぱり思い出せないのだ。有里達はどうしたんだろう。ミッキーやタクちゃんは?

 それよりも何よりも、私はトイレの床に座り込み、さんざん吐いたままの状態ではないか。きっと吐物の匂いもトイレのそれも染みついたままだろうし、髪も化粧も服だって乱れているに違いない。

 何で? どうして? いつも私は最悪の状態で霞君と二人きりになる。みんなが気を利かせてくれたのかもしれないし、彼が私のために自転車を走らせてくれているのは嬉しいけれど、私は木の上のバナナを取り損ねて崖から落ちていく猿のような絶望的な気分。

 やがて道は上り坂になり、霞君が腰を上げて重そうに自転車を漕ぎ出した。

 私は荷台から飛び降りた。一瞬よろめいたが後について歩き出し、上りきったところで霞君が「着いたよ」と、私に声をかけた。

 そこは川縁の土手だった。見慣れた川も夜になるとちょっと神秘的。お世辞にも綺麗とは言えないけれど、建物の密集しない開放感はいい気持ち。遠くの橋上で電車が光と音を撒いている。でもどうしてここへ?

 私がそんな視線を向けると、霞君は小さく呆れたように笑いながら言った。
「お前が言ったんだぜ。『大吾、土手行こうよ。風に当たりたい』って」

 全然覚えてない! しかも呼び捨て!

 ……私って、こんなに酒癖悪かったんだ。何かもう、自分で自分のことが信じられない。

「ごめんなさい。ありがとう」

 私はようやくそれだけ言った。そして沈黙。匂ったらどうしようと思うと、どうしても距離を開けてしまう。距離を開けると、たたでさえ緊張して弾まない会話が全くなくなってしまう。悪循環。今更ながら、彼を呼び捨てにしたことで頬が熱くなる。

 すると突然、まるでそれを冷ますかのように空から大粒の雨が落ちて来た。あっと言う間に土手のあちこちに水溜まりが出来、その水面を新たな雨粒が次々と跳ねる大雨になった。

「あそこの下に入ろう。足を滑らすなよ」

 霞君は、川縁近く、橋の下の雨宿りできる場所を顎をしゃくって示し、早足に自転車を押して土手を下り始めた。私はさっきまで自分のおしりが乗っていた荷台に手をかけ、自転車の勢いに引きずられてパンプスを土手の草むらに突っ込んだ。

 ようやく辿り着いたときには、二人とも既にずぶ濡れだった。今更雨宿りしてもあまり意味がないくらい。服が水を吸って重い。

(えっ? あ、あれっ?)

 そこで私は青ざめた。背中のホックが外れてブラがずれているではないか。今まで全く気づかなかった。

 そう言えば、有里が背中をさするために外したような気がする。ヤバい。霞君の目に私の胸の形が変に映っていないかしら? けど、けど、彼の目の前でつけ直すなんてこと出来るわけない。どうしよう?

 顔は平静を装う。でも心中は動揺しまくり。急に走ったせいで息が荒いのが多少のカムフラージュをしてくれる。

 霞君は自転車のスタンドを立てている。が、きちんとストッパーがかからないらしい。何度かストッパーを蹴飛ばしていたら、反動でスタンドが戻り、自転車が傾いた。

「やべっ」

 霞君はバランスを崩し、自転車と共に泥の海に誘われた。が、間一髪のところで身体は踏みとどまり、手先足先をぬかるみに浸すだけで済んだ。自転車は右半分泥まみれ。

「大丈夫?」
「うん。けど……」

 自転車を起こした後、ぬかるみの中から何かを拾い上げた。

「ごめん。お前の鞄、こんなになっちまった」
と、彼が拾い上げてくれたそれが、ブランドの風格など微塵もない、おはぎに取っ手がついたような状態になっているのを見たとき、私の中の笑い袋が音を立てて弾けた。

 私は身をよじり、目に涙を溜めて大笑いした。お腹が痛くなるくらい。びしょ濡れなのに身体が熱く思えるほど。水を吸った衣服の重さも気にならない。ブラのことも今はどうでもいい。

 ひとしきり笑い尽くして息をついたとき、彼が言った。

「よかった。やっぱり笑ってる顔の方がずっといい」

 私は反射的に赤面し、慌てて目を逸らす。髪をまとめて絞り、手櫛を通して整える。

 沈黙。

 雨が地面を叩く音が響く。私の鼓動と同じくらいの激しさだ。
 継げる言葉は何もない。代わりに息を一つそっと吐いた。

 彼の手にあるバッグを受け取る。手で泥をかき落としてみる。今度は掌に泥がついた。じっとその手を見つめてみる。

「おい、京野」
 霞君が心配そうに私の顔を覗き込む。

「実佳で、いいよ」
 私はそう答えて橋の下から歩み出し、掌を前に突き出した。見る間に掌の泥が溶けていく。穴を穿つかのような大粒の雨に再び全身が蹂躙される。

「ここでいい。こうしていれば、今までの私全部、洗い流してくれるような気がするから」

 明日肺炎で倒れても、今は雨に打たれたい。でもどうなってもいいという、後ろ向きの思いじゃない。

 霞君は、そんな私を見てふっと笑い、
「じゃあ俺も、洗い流してもらおうかな」
と、私の隣で両腕を天に掲げた。

 ああ、そうだ。そんなとき彼に宿る瞳の色が、やっぱり私はそれが好き。

 見ちゃうとやっぱりドキドキする。だけどその思いを込めた言葉を口にするのは、私にとっては勇気が要る。今ではないとも感じている。だって今の私は、状況も見た目も完全に不戦敗。土俵に上がる資格もない。

 その代わりと言っては何だけど、彼が肩の後ろあたりに飛び散った泥の塊を取るのに苦労しているところへ、手を差し伸べた。

「ありがとう」
彼が照れくさそうに言う。

 霞君の背中は温かかった。彼についていた泥が、私の手につく。それだけで私の身体も熱くなる。

「実佳、高校出たらどうする?」
 ふいに霞君が訊いた。呼び捨てにする、その響きが互いにくすぐったい。

「え? どうして?」
「いや……、まあ、何となく」
とは言うものの、単なる思いつきで訊いたわけではないことは表情から察しがつく。

「……そうねえ」

 いつもなら話題を逸らして答えを返さないこの質問に、過剰摂取したアルコールのせいか、最悪の状態ばかりでの二人きりにこれ以上恥ずかしいことなどないと開き直ったせいか、それとも肉体ごと溶かして私を無に帰そうとする大雨のせいか、それは判らなかったけど、今は素直に答えようという気になった。

「あのね、私、一応三年になったら大学進学コースを取る気でいるけど、それは親に向けた建前。本当は、進学も就職もする気はないの」

 私は彼をちらりと見た。
「今、バイトしてお金貯めてるんだけど、卒業したら、そのお金を使って……、旅に出たいの」
「旅?」
「うん。バックパック一個背負って、世界中を見て回りたい。ツアーなんかで表面だけかじるんじゃなくて、自分の足でその国の生活の中を歩きたいの」
「へえ、すげえじゃん」

 彼の感嘆が本心からか、疑っている自分が悲しい。
 これは私の小さい頃からの夢。けれどこれを夢だと認めているのは私だけ。

 旅など金があって思い立てば、いつでも簡単に行ける。その程度のものを夢とするのは志が低い。例えば宇宙飛行士になりたいとか、自分の店を持ちたいとか、実現までに努力と苦労が求められるものこそが人生の目標となり、夢に値する。

 小学校の卒業文集に書いた私の文章を読んで、担任教師がそう言ったときのショックを私は忘れていない。悔しさに涙を溜めて両親にその話をしたとき、返ってきた「そうなんじゃないの」という言葉に私の心は砕け散った。

 人間は、相手の内面など判りはしないのだ。可愛い服を着て行くと、人は「可愛いね」と褒め、集まって来てくれる。でも、世の中や周りの出来事に対する自分の思いを話すと、「子供のくせに生意気だ」、「女のくせに偉そうに」と言って周りからいなくなる。今までその繰り返しだった。

「別に……すごくない。幼い頃は異国への憧れからだったけど、今はここから逃げたいだけ。前向きな理由じゃないから、あんまり人に話したことないんだけど」

「そんなことないよ。自分なりにこうなりたい、こうしたいって思うことだけだって立派な夢だと思うけどな。高校出たら、すぐに行くの?」
「ううん。それは微妙。今のペースで卒業後すぐに出発出来るお金が貯まるかどうかは……。でも、どうして?」

「うん。実は……」
と、霞君は濡れた前髪をかき上げた。

「前に、実佳にライブハウスに来てもらったとき、あのときボーカルやってもらって録ったデモテープを関係者に聴かせたら、かなり評判よくてさ。ダンさんも喜んじゃって。で、これからもしばらく、君の声を貸してもらえないかと……」
「……」
「あ、もちろん、実佳の意思を尊重するから、旅立つまでの間で構わない」
「……」
「どう?」

 雨は一向に止まず、私達は既に服のまま海にダイブしたような状態だった。大雨に打たれるままの二人きり。辺りに人影はなく、時折やってくるのは、土手の向こうを通る車の走行音くらい。

 最初、私は自らの醜態を気にして彼と距離を取ろうと思った。でも今は、彼と二人きりでいることに甘いときめきと共に安堵を覚えている自分がいる。

 そう。今まで彼と二人きりのとき、いつも私は最悪の状態だった。飾ろうにも飾れず、逃げ出したくなるようなシチュエーション。その連続。そのせいか、今はありのままでいいと思える。

 私は何の光もない空を見上げ、大きく息を吐いてから、
「音楽は……」
「え?」
「楽しいかしら?」
と訊いた。彼はニッと笑い、
「もちろんさ。三つのときから十四年やってる、この俺が保証するよ」
と、親指を立てた。

「でも」
「ん?」
「学祭のステージは、ありがとう。あれは確かに借りだから、それについては返すけど、今後は貸すとか借りるとか、そういうことは、なしにしよう」
「え? それって……」

 私の含みのある笑顔に、彼は察しがついたよう。
 そう。勇気を出すとか、そんな風な大事に捉えなければいいんだ。ありのまま、望むまま、素直な意思に任せればいい。

 私は彼に向かって一歩近づこうとした。が、足が動かない。地面を見ると、いつしか広がったぬかるみと砂利が、がっちりとパンプスのヒールをくわえ込んでいる。私は思いきる。そして力を込める。

 ふいに足が抜けた。でも足だけだ。パンプスは泥に囚われたまま。その勢いで身体が前へ傾く。

「あっ!」
 私は叫び声を上げながら、思わず霞君を押し倒した。ドシャッと音がして、泥の飛沫が走る。

 気がつくと私の頬は彼の胸の上。皮膚が彼の激しい鼓動を感じ取る。そして私の片方の膝は彼の両腿の間。

 私は彼を見る。彼の瞳も私を見つめ返す。

 今まで私には、黒か白、もしくはプラスかマイナス、またはイエスかノーしかなかった。原因が行動を促し、行動は結果を生む。その全てを読んだ上でなければ、私は進むことが出来なかった。そして、世の中の全ての出来事が、その論理で説明がつくと思っていた。 

 それが私の今までの人生観だった。

 でもたった今、それが泥の飛沫にまみれたことで気がついた。そうじゃないことだってある。そうじゃないことだって、あっていいのだ。

 泥に埋まったパンプスに、私は感謝しなくちゃいけない。
 今の私には、今目の前に見えているものだけが全て。

 雨の中。泥の海。霞君の上に横たわる私。そのときに私が思ったのは、取り繕うことなんかじゃなく、たったこれだけだった。

 ま、いいか。

 でも、これでいいんだ。

(了)

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